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シベリア抑留(シベリア捕虜収容所)

  • 2008/04/19(土) 14:38:55

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ラーゲリの再現

シベリア抑留(シベリア捕虜収容所) より転載

さて、ソ連に抑留された日本人の数は約60万人と推定されており、
その大部分の人が何年にもわたる強制労働を強いられたのである。

ソ連軍は日本兵を約1千人を単位とする”作業大隊”(569個)に編成し直した。
その際に従来の部隊に関係なく、
各種の部隊を混在(数個〜十数個)させた。
適当に団結力のない管理しやすい集団を作ろうとしたのであろうか

作業大隊の指揮には、
下級将校(大佐、中佐クラス)それも最小限の人数のみを残し、
他の大部分の将校は、下士官、兵(作業大隊)と分離して
”将校大隊”に編入された。
こうして旧日本軍の組織は完全に破壊された。

日本兵は、シベリア(47万2千人)をはじめ
外蒙古、中央アジア、ヨーロッパ・ロシアなどの捕虜収容所等に分散収容された。

そして、大部分の日本兵(将校大隊を除く)は、
それぞれの地域にある一般強制労働収容所(ラーゲリ)で
強制労働をさせられることになったのである。

”音さえ凍る”といわれる極寒の地シベリアの自然環境は厳しい。
その中で、捕虜たちはおもに屋外での重労働に従事した。
過酷な”ノルマ”(達成目標)に対して与えられる食料はとぼしかった。

収容所内で日本人指導者の地位に就いたのは、
いくつかの権力闘争の末(昭和23年春頃)、最終的には多くの場合、
日本での教育年数の少ない25歳以下の下級兵士であった

彼らは作業大隊の指揮権を下級将校から奪い取ることによって
思いもかけない”権力の座”についた。
そして”アクチーブ”(積極分子)としての特権をほしいままにしたのである。

特権の第一は、なんといっても過酷な労働から解放されることである。
さらに炊事場を監督下におくことによって食物の心配をする必要がなくなる。
こうなればシベリアの極寒もあまり気にはならないだろう。

しかしその彼らを任命するのはソ連当局である。
意に沿わない行為をすればたちまちにしてその立場を追われることになる。
アクチーブになるために、そしてなってからも積極的な”学習”と”活動”が求められた。

ソ連当局にとって民主運動のねらいは、
1)日本人捕虜に共産主義の考え方を叩き込むこと、
2)前職者の告発、
3)捕虜を労働にかりたてること、にあったと思われる。

ここで前職者とは、参謀、特に情報参謀、特務機関、憲兵隊、警察などの職を
一度でも経験した者のことをいうそうである。
”反動”すなわち軍国主義、ファシズム思想をもつ者という意味であろうか。

さて、アクチーブの活動はこれらソ連当局の意向にそったものとなるのは当然である。
収容所内での民主運動学集会を開催して講師を務める。
その成果によって、より上位の学校で学ぶ機会を得る。
などといった実践が続いた。

アクチーブが中心になって反動を批判攻撃するために、
しばしば激しい”吊し上げ”が全員参加で行われた。

ここで反動とは、前職者、軍国主義者に限らず、
共産主義ソ連の反対者全般と言うことになるが、
反動がほとんどいなくなった後では、
アクチーブ自身の地位安泰のために、ささいな言いがかりをつけて
反動を無理やり作り出すといった状況が見られた。

反動は永久に帰国させない、というおどしをかけられ、
事実帰国を遅らされる者が相次いだ。
こうして多くの者は、次々と自己批判をして
”ダモイ(帰国)用民主主義者”となっていった。

反動から民主主義者へ転向した証しを示すには積極的な活動をする必要があった。
まだ残る反動を吊し上げて罵詈雑言を浴びせること、
あるいは前職者の密告、そしてでっち上げまで行われた。

多くの抑留者(短期抑留者)が帰国した後には、
こうした”前職者”が”受刑者”として取り残された。

彼らはソ連国内法で裁かれ、20年、30年という異常に長い刑期を言い渡された。
そして、 日本人同士の受刑者は互いに切り離されて、
ソ連人やその他外国人受刑者の中に、多くの場合たった一人で放り出された

しかも捕虜という身分を失ない、ただ単なる外国人犯罪者として
日本国内での関心の対象からもはずされていったのだった。

様々な交渉の末、なんとかシベリア長期抑留者の引揚げが
一応完了したのは1956年(昭和31年)12月26日である。
その総数2689人、帰国船が入港するたびに、
そこには今日も待ちつづける”岸壁の母”がいた。

シベリア抑留の本当の意義は、極限におかれた
日本人のモデルを示したことにある、といえるだろう。


大多数の日本兵(将校も含めて)は、
ソ連当局の過酷な要求を前に団結して戦うことは決してなかった。
逆に洗脳されて民主化運動という熱病に侵されてしまった。

ヨーロッパ諸国(ドイツ、イタリアなど)の捕虜にはみられない行動パターンである

将校の中で彼らの部下である兵士の待遇改善に尽くしたものはほとんどいない。
それは、作業大隊から切り離された上級将校および
作業大隊を直接指揮する立場にあった下級将校ともに同じである。

将校たちは、民主化運動の高まりの中で
なすすべもなく権力の座を下級兵士に明渡してしまった。
そして一部兵士の中では、自分の欲得のみを考え、
帰国のためには友を売り渡すような裏切り、背信行為が 行われた。

ソ連抑留者総数60万人から短長期抑留帰国者数を差し引くと、
死亡・行方不明者約6万9千人(全体の1割強)となる。

対ソ戦の戦死者は2万7千名と推定されており、
戦闘が終了した後に、戦時に倍する以上の人がむなしく死んでいった計算になる。
また、無事帰国できた人々も肉体的・精神的に大なり小なりのダメージを受けていた。

なお、短期抑留者の帰国直後の時期に、
民間人約3000人が樺太に抑留(主として経済犯として)されていたという。
関東軍を中心とする将兵だけでなく
抑留の対象となった一般民間人がいたのである。

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▲両袖のない防寒外套。
あまりの空腹に耐えかね、片袖ずつロシア人労働者の持っていたパンと取り換えた。
当時は一般ソ連人も極貧の極みだった。

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