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ソ連における弾圧体制の犠牲者 3
- 2008/04/17(木) 16:09:22
3、流刑の犠牲者
第三分類の犠牲者は流刑の死者である。
1930〜53年に約600万人が単なる行政措置によって、
単身あるいは家族とともに、
シベリア、カザフスタン、北極圏、極東、ウラルの
荒々しい地方に強制移送された。
スターリン時代の最初の大量移送は1930年2月に、
農村における「非富農化」で始まった。
2年間に180万人以上の「富農」が列車によって運ばれ、大抵はタイガに放置された。
受入れ担当の地方当局は、多くの場合に過大な業務が割当てられた。
この「移送‖放置」の過程でどれほどの人が死亡したか?
その算出は困難である。
ある人々は3〜4ヶ月にわたる移送の過程で逃亡に成功した。
しかし20〜30万人、その多くは家族の伴った子供たちが1930〜31年に死亡した。
1932年には移送者中死者約9万人(死亡率6.8%)を政治警察が算出した。
1933年は死者15万1000人以上(死亡率13.3%)である。
1930年代の死亡者数は60〜70万人である。
1935〜36年からは民族ごとの大規模な強制移送が始まった.
初年は国境地帯に住む少数グループで、
レニングラード地区のフィンランド人、
ウクライナ西部国境地区のポーランド人、ドイツ人、
ウラジオストック地方の朝鮮人である。
1940年代は領土拡張と戦争と西方(バルト諸国、西ウクライナ、モルダビア)が占領、
あるいは再占領された時期である。
約320万人が強制移送され、
その殆どは階級所属ではなく人種に基づいており、
これは「非富農化」の時に行われたものと異なっている。
今日、移送された人の数は分かっていても、
死亡者数を正確に出すのは困難である。
家畜用貨車による数千キロの移送過程における死亡、
カザフスタン、シベリア、極北、中央アジアにおける
不安定な「定住」の最初の数年における死亡などの詳細は把握し難い。
現在のところ提出できる見積りは、
1930〜53年の強制移送者全体における超過死亡率に当るものは約150万人である。
4、飢饉の犠牲者
これは犠牲者のかけ離れて多い分類である。
ソ連におきた三つの飢饉の死亡者、
これらはヨーロッパの最後の大飢饉であるが、
1921〜22年に死者500万人、
1932〜33年に死者600万人、
1946〜47年に死者50万人である。
これらの悲劇的事件に体制が重大な責任を負っていることは動かし難い。
1932〜33年と1946〜47年の飢饉については、
完全に不問にふされているが、政府の責任は決定的である。
最初の飢饉(1921〜22年)には二重の状況がある。
第一に、前例のない人口の変化であり、
1914年8月から1922年夏まで、
1500万人が第一次世界大戦、一九一七年革命、四年間の内戦にまきこまれ、
個人的、集団的にかつてない大量虐殺、チフスとコレラの洗礼を受けた。
第二に、生れたばかりの体制と広範な農民層の対立である。
ボリシェヴィキ指導部は
「陰気で」「アジア的な」農村大衆に深い憎しみを感じた。
彼らは近代化と社会主義に心底から非協力であると思われた。
農民の要求する交換の自由を拒否し、暴力による徴発を行い、
ボリシェヴィキは農村と対立関係を作った。
1920年には白軍が敗退した。
農民は旧体制に帰る以外の展望をもたない白軍を支持しなかったが、
今度はボリシェヴィキも耐えられぬ重荷になった。
1921〜22年に、戦争で荒廃した土地のわずかな収穫物に対して
農産物の徴発は1918年の水準の3倍に達した。
そこに干ばつが到来する。
それは1921年ボルガ盆地の場合がそうだ。
わずかな蓄えは、当時政府報告に使われた用語によれば、
「徴発の乱行」によって、系統的に横奪され、飢饉は爆発的に広がった。
1932〜33年の飢饉で体制の責任は明確だ。
1929年末に、権力をもつスターリン・グループは
農村における強制的集団化を開始した。
「社会主義建設」のスローガンはネップで行われていた
市場の仕組みを破壊し、形ばかりの価格で、
コルホーズ(集団農場)とソホーズ(国営農場)の農産物を取り上げ、
国の工業化を賄うことを国に許すことを目的にする。
1920年代に農民は市場価格で、収穫物の15%を売却していた。
1930年から国の徴発は農産物の27%に達する。
1933年にそれは33%になり、
ウクライナと北コーカサスの小麦大生産地では収穫物の50%近くに達する。
飢えた農民の大量流出が都市に向うのを防ぐため、
鉄道の切符販売が停止され、
スターリンによれば「ソヴェト権力に生死の戦いをいどむ」
農民の離村を阻むため軍の一部が展開される。
1932〜33年の飢饉にいたる過程でスターリン指導部は、
1932年夏の初めに何度もその危機と飢饉の現実を警告されており、
その責任は明白であり決定的である。
飢饉のピークは33年1月から7月までだったが、
32年夏と33年夏、ソヴェト政府は170万トンの穀物を輸出し、
起こるかもしれない戦争用のストックとして
国の備蓄は300万トンを超えていた。
これは数百万人を飢餓から救うに不足しない量である。
最後の大飢饉は1946〜47年であり、
これも政府によって否定され、いまなお否認されている。
これは1921〜22年の飢饉の状況を思わせるい
くつかの特徴をもつと同時に本質的には32〜33年の要因も兼ねている。
戦後におけるこの飢饉は、
1941〜45年の2600万人の死者という人口減少を締めくくるものであり、
戦争中における経済基盤の大規模な破壊の後に、
慢性的栄養不良と疫病を背景に発生している。
1946年の収穫は破局的で45年を20%、32年を40%下回る。
しかし当局は国家への強制的引き渡し部分の引下げを拒否し、
一方でスターリンは都市における配給の終わりを発表した。
政府は新戦争にそなえた穀物備蓄に手をつけるのを拒否し、
これは約一千万トンに達していた。
こうして46〜47年に50万人以上が餓死し、
それは主としてクールスク、ヴォロネジ、タンボフ、モルダヴィア地方で発生している。
二〇世紀にヨーロッパの一国で1150万人が餓死している。
この恐ろしい後退は何なのか。
近代化と進歩の担い手を標榜した
ソヴェトの経験の特殊性と性質について歴史家である私は問いかけられる。
一世代約30年の間に300万人が
キャンプあるいは強制移送によって早死にしている。
100万人が茶番の裁判あるいは単なる「行政措置」で殺されている。
以上がソヴェト弾圧体制の最盛期における犠牲者の暫定的な総括である。
いつでもそうなんだ。
食べ物があるんだ。
それでも飢えに苦しむ。
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