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ソ連における弾圧体制の犠牲者 2

  • 2008/04/17(木) 15:59:09

ソ連における弾圧体制の犠牲者 より転載
原題「流刑、強制収容所、飢饉…ソ連あるいはテロルの支配」

1、政治的処刑の犠牲者

体制の直接的犠牲者の第一分類には、政治警察にかかわる、
「反革命」にかかわる事件で死刑を宣告され処刑された人が含まれる。
政治警察関係では406万人が有罪となり、うち80万人近くが死刑を宣告され処刑された。

死刑宣告の85%は1937〜38年に行われた。
すなわち「大粛清」を通じて68万人以上が処刑され、
それは政治局つまりスターリンによって、
地方ごとに決められた「処刑割当」によって主として行われた。

別表のなかで1940年に2万5700人の
ポーランド人士官、官吏、警察その他「階級の敵」が
内務人民委員ベリアの40年3月5日付け極秘命令で
処刑されたことが明らかに脱落している。

「脱落」の理由は、その事件の一つが「カチン事件」
(ポーランド士官約4500人が殺された場所)
の名で知られるこの全事件が非常に反応を招きやすいため、
「特別の扱い」がされたためではないか。

大粛清中、地方の行き過ぎが惨事を広げたとの説があるが、
地方の要請に基づいて多くは政治局が認可している。

1921〜53年の犠牲者は今日算出できるのは約80万人であるが、
実際には約100万人であろう。

2、強制収容所の犠牲者

ソヴェト弾圧体制犠牲者の第二分類は労働キャンプでの死者である。

1968年に英国の歴史家であり戦時通信員だったアレキサンダー・ヴェルスが
50年代の初めの強制収容所抑留者数を1000〜1200万人、
さらには1500万人と挙げた数字は、
18歳から60歳までの成人男子総数が
当時3500万人をわずかに超えていたことを考えれば疑わしい。

最近のデータでは、最も多かった50年代初めで250万人である。
このうち「反革命活動」で有罪とされた人は約四分の一、
後は軽犯罪への不釣り合いな刑で抑留されているものが大部分だ。

例えば「社会的所有」の窃盗に関する法律では、
コルホーズの畑で小麦の穂を幾つかとっただけで、
5年から10年のキャンプに回すことができる。

強制収容所での死亡者数について現在入手できる資料によれば、
1931〜53年に5年以上受刑者が送られた
大総合強制収容所の850万人中88万1000人が死亡している。

比較的軽罪の受刑者が送られた労働開拓地の650万人中では、
資料がそろわないため、40〜50万人が死亡したと見られる。
こうして強制収容所における死亡者総計は150万人足らずである。

キャンプにおける死亡率は時代によって著しく異なる。

最も恐ろしいのは1933年で、死亡率は20%に上っている。
これは大飢饉と大強制収容所の混乱に基づくもので、
管理の不行き届きで収容者の五分の一が飢えと疫病で死亡した。

1938年には9%が死亡したが、これは「大粛清」の犠牲者が送られ
キャンプが過密になったためである。

1942には20.7%、43年には20.3%に達したが、
これは収容者が補給のないキャンプに放置されたためだ。
この2年で40万人が死亡しているこの時期、
100万人以上の囚人が釈放され赤軍に投じられて初戦の軍事的損失を補った。

以上の不揃いの死亡率は
強制収容所囚人に対する体制の態度を明確に反映している。
すなわち無関心、犯罪的怠慢、成行きまかせ、破廉恥である。

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