•  | HOME | 

ソンミの虐殺 2

  • 2008/04/13(日) 13:58:23

良心の裁き The Tribunal of Conscienceより

この虐殺の直後、米陸軍の司令官たちは、真実を歪めて、
それを偉大な勝利だったと描こうとした。

この「勝利」の宣言とともに、
米軍の将校は真実を消し去る努力をした。

バーンハートが自分の選挙区の上院議員に
この事実を打ち明ける手紙を出そうとしたことを知ったメディナは、
すぐさま彼に会いに来て、脅迫し、それをやめさせた。

他の米軍将校も、それぞれ自分の部下たちに沈黙を守らせ、
この犯罪を秘密にしておくために、同じような行動をした。

1969年の初めまでに、チャーリー中隊の兵士の大部分はベトナムを去り、
全米各地で、大学に進んだり、以前の職に戻ったりした。

彼らのうち何人かは、その後も虐殺事件のショックに
悩まされ、付きまとわれていた。
またある者は、過去のこの犯罪を忘れ去ろうと努力した。

にもかかわらず、ひそかに
この虐殺事件の糾弾を準備していた元兵士が一人だけいた。
彼はチャーリー中隊の兵士でもなく、
この事件にかかわった人間でもなかった。
この人物こそ、ロナルド・ライデンアワーだった。

この虐殺事件のあった数日後に、
ソンミ上空の飛行に参加するよう命じられた。
彼は、この村が完全に破壊されていることに気がついた。
鳥の鳴き声さえしていなかった。

1968年の12月初め、復員してフェニックスの故郷に帰ったライデンアワーは、
仲間たちからは邪魔をされても、なお、
この虐殺を告発する意図を心に抱いていた。

ライデンアワーは、この手紙のコピーをたくさんつくり、
リチャード・ニクソン大統領や、国防省、国務省、
統合参謀本部の幹部、上下両院の主要議員らに送った。

これら重要人物の多くは、そんな手紙のことは何も知らないと言ったが、
アメリカ政府と軍部はこの事件を無視できなかった。

1969年の9月初め、カリーは、
ソンミでの109人の意図的な殺害行為に関して起訴されることになった。
1969年11月24日、ウィリアム・ウェストモーランド将軍は、
アメリカに戻り、陸軍参謀総長の地位についた。

アメリカ政府と軍部は、調査に消極的で、動きはおそかったが、
アメリカのマスコミは、ソンミの記事を矢継ぎ早に伝え続けた。

11月23日には、ミードロがCBSテレビに出演し、
ジャーナリスト、マイク・ウォーレスのインタビューに答えて、
ソンミでの彼自身とカリーの小隊の犯罪行為を告白した。

ソンミのニュースは、月への二度目の到着を終えたばかりの
アポロ12号宇宙船のニュースをも蔽ってしまった。

そして、ハーバールの撮影した犯罪的光景のカラー写真が、
まず1969年11月20日に『クリーヴランド・プレイン・リーダー』紙に、
ついで1970年1月19日号の『ライフ』誌に、
そしてその他多くのアメリカ、および諸国の新聞に掲載されると、
アメリカ人の怒りと運動の波は高まった。

この写真は、明らかに戦慄すべき現実を伝えていた。
アメリカの世論は沸きかえり、憤激が広がった。
なぜなら、自分たちの子弟が、
思いもよらぬ極悪非道の殺人者だったとわかったからだ。


アメリカ国内では、告発された全将校が、
軽い裁判にかけられ、その大部分が恩赦を受けた。
そして、結局最後には、あらゆる責任は、カリーに負わされたのだった。

カリーは終身刑を宣告され、陸軍から追放、給与と手当てを打ち切られた。
だが、裁判から1日後に、ニクソンはカリーを刑務所から釈放するように命じた。

1975年までに、カリーは完全に自由の身となり、
その後、ジョージア州コロンバスで、有名な宝石店の経営者となった。
殺人犯だと言われると、彼は、穏やかに、
ソンミの死体が念頭に浮かぶことなど一度もないし、
自分を殺人者だなどと思ったことも決してない、と答えるだけだった。

一人の米兵が戦争に出かけてゆく。
彼らはミライ一村のみで民間人を殺戮したのではなく、
何百という村でそれをやったのだ。 


ソンミは「単独の事件」などではなかった。

第11旅団の古参兵士、テリー・ライドはこう語っている。

「俺たちの中隊は、何百人も殺したというお墨付き部隊なんだ。
この中隊がやった最初の交戦で、俺の小隊だけで40人の死者を数えた。
だが俺の小隊では、だれ一人、ベトコンの死体を見たものはいなかった。
だが、俺は、多くの村民がまるで
クレーの素焼きの標的のように撃たれてゆくのを、この目で見たぜ。」

もう一人の元兵士、ロン・グルゼシックにとって、
ミライ第4地区は数ヵ月も前から始まっていた悪循環の終りだった。
彼は言う。

「一歩、一歩と、前よりももっとひどいことになるといった具合だった。
最初は、連中を止めて、尋問をし、そして放してやった。
次は、連中を止め、老人を殴りつけ、そして放してやった。
その次は、連中を止め、老人を殴りつけ、そして撃ち殺すんだ。
そして4番目には、出かけていって、村全部を消してしまうんだ」と。

全体としてみれば、米兵はソンミの中だけで
いくつかの犯罪をひき起こしたのではなく、
ベトナム全土でもそれをやったのだ。

ベトナムにおいては、いつであっても、
アメリカ侵略者は、退避壕の中に毒ガスを撒き、
食べ物や飲み物の中に毒物を混入し、家々を焼き払い、
村民を燃え盛る炎の中に放り込み、歩兵銃で連続射殺をし、
ナイフや武器を突き刺し、南北両ベトナムを徹底的に爆撃する……などといった、
野蛮な殺戮シーンを、無数の火器や弾薬をもって、つくりだしたのだ。

その犠牲となったのは、なんら武器を持たぬ民間人だった。

犯罪者は、カリー、ミードロ、メディナといった
ギャングのような連中だけではなかった。

残忍極まる絶滅政策によって、アメリカ軍隊は、
南部クァンガイ省を根拠地とする第11機甲騎兵連隊の司令官、
ジョージ・パットン大佐を象徴とするような、
残虐な殺人者を、その中につくり出したのである。

彼は部下たちに向かって、
「俺は手や脚が吹き飛ばされるのを見たいんだ」とよく言った。

パットンは、1968年のクリスマスに
「地には平和を――ジョージ・S・パットン大佐夫妻より」
と記したカードを送ったのだが、
そのカードについていたのは、手や脚などをもがれた
ベトコン兵士の死体の山のカラー写真〈……)だった。

パットンがベトナムを去るときのお別れパーティでは、
彼は首の周りに平和のメダルをつけた恰好で、
ベトコンの頭蓋骨を放り投げて見せた。

ソンミ事件が暴かれると、カリーは裁判に付された。
やがて、一部の好戦的アメリカ人は、おろかにもカリーを支持しようとした。
ある者はカリーを英雄視し、ある宣教師は、彼を、
十字架に釘付けされた受難のキリストの例にたとえたし、
またある者は、カリーを国防長官にしようというスローガンを掲げさえした。


だが、真のアメリカ人は、自らの正義の声を上げ、
カリーの犯罪の性格に見合う裁判が必要だとし、
同時に、カリーの上官たちについても、
たとえその手が血で汚れていないようには見えても、
彼らが持つ重大な犯罪を無視することは出来ないとした。

アメリカの知識人は、この犯罪人こそ、ウェストモーランドであり、
さらにホワイトハウスの大統領執務室に坐って、
この皆殺し戦争を指揮している人物さえもそうだとした。


世論は、ニュールンベルグ裁判で、
下級兵士の行なった犯罪の責任で
15年の刑に処されたドイツのペンミ将軍の事例、
フィリピンにおいて日本軍兵士が
民間人や戦争捕虜を殺害した責任を問われて死刑に処された
日本の山下奉文将軍の事例を挙げて、
それをウェストモーランドとベトナムで
彼の指揮下にあった兵士のソンミでの犯罪の事例を関連付けたのだった。

ソンミは単独の事件にすぎず、
それでカリーは裁判に付されたのだという主張に対し、
世界とアメリカの世論は強く反対した。

ソンミは、ベトナム戦争でのアメリカの一連の犯罪行為の一部分であり、
米国政府と米国軍隊以上の犯罪者はない、というのである。

世界のいたるところで、人びとはソンミ大虐殺の写真を報道し、
新聞に転載して、米軍によるベトナムでの残虐な侵略戦争に反対する声を上げた。

ホワイト・ウォーター氏は、『ライフ』誌に自分の意見を発表し、
「まさしく、それは、歴史の中で幾たびも繰り返されてきた極めて嫌悪すべきことである。
米軍が婦女子を残酷に殺害したのは、これが初めてのことではない」と書いた。

ガブリエル・コルコ教授は、
「当然のことながら、アメリカの政策は、
南ベトナムを火の海に変え、ベトナムをその標的とした。
歴史に残る犯罪者とは、直接に銃を発射した者たちだけではない」と語った。

女優、ジェーン・フォンダは、「カリー中尉は生贄にすぎない、
最大の犯罪人は、主にワシントンの当局者たちだ」と語った。

この記事に対するトラックバック

この記事のトラックバックURL

この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

この記事に対するコメント

この記事にコメントする

管理者にだけ表示を許可する