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バターン死の行進 2
- 2008/03/08(土) 12:06:06
バターン死の行進の真実
小説:「太平洋戦争」:山岡荘八著による より転載
下記の文章は、当時従軍していた山岡の畏友H君の報道記事である。
これを読めばバターン死の行進の実情がわかる。
「―(前略―)
話をしているうちに敵軍の不思議な性格が明瞭になって来た。
彼らは最高指揮官の命令によって動くのではなく、
中間の団体長が勝手に投降をするのである。
バターン半島の東地区、西地区というように、
おのおの、ばらばらに投降のために白旗が作られていた。
東地区の将校は西地区のことを知らず、西地区の指揮官は東方のことに関与せず、
またバターン全島が降伏しても、
コレヒドールはなおも射撃をやめないのである。
各所で、まちまちにあらわれた敵軍使との会見が行われたわけであるが、
わが軍はなおも追撃前進を続行した。
この時から投降兵の群れはいたるところから我々の前に現れてきた。
米兵が来る。比島兵が来る。
どこにこれだけの兵隊がいたのかと思われるほど出て来る。
わいて来るという感じだ。
実を云うと私はこの半島の戦線には、こんなに多くの米兵はいないのかと思っていた。
サマットの前線であまり見かけなかったのでそんな気がしたのかも知れない。
米兵はほとんど後方にいたのであろう。
私はしまいには不思議な感じがしはじめるとともに、
妙に腹立たしい思いに駆られた。
これだけの軍隊がいながら、なぜ戦おうとしないのか。
米兵はいずれも背が高く、頑丈な身体つきをしている。
日に焼けて、トマトのような真っ赤な顔になり、
たくましい髯面にぎょろぎょろした眼を光らせている。
毛むくじゃらの太い腕に、さまざまな刺青をほどこしている兵隊もある。
それらの兵隊が、銃を捨て、だらしなく鉄帽を斜めにかぶり水筒を腰にぶらさげ、
ズックの背嚢だけを大事そうにかかえて力ない足どりで
ぞろぞろとでてくるのだ。
日本の兵隊が一人で二百も三百もの米兵をあずかる。
中には一人で五百も米兵を引率してゆく。
日本の兵隊は肩までしかない。
おまけに軍帽はよごれてぼろぼろになっている。
これは漫画ではないのだ。
(中略―)
このときに、我々の心を衝いたのはあわれな難民たちである。
戦火に追われた無数の難民がバターン半島の山中に逃げ込んだ。
バターンの戦火がおさまると、
これらの難民たちがぞくぞくと出て来て各所に屯した。
投降兵と難民とが、とめどもなく陸続とつづいた。
難民たちの多くはもはや歩くのがやっとである。
歩けなくなって道端に倒れる者も少なくない。
老人や女子供はむざんなほど痩せ細り声をだすのにも骨が折れるくらいだ。
食糧もつき、一週間以上も何も食べずにいた者も珍しくない。
その上多くの者がマラリアやデング熱にかかり、山中で倒れた。
赤ん坊は真っ青な皮膚をむき出して母親に抱かれているが、
それは生きているものやら死んでいるものやらわからない。
母親はもとより乳がでないのだ。
(中略―)
日本の兵隊はそういう避難民を見るとだまっていることができない。
自分が今日から食べるものがなくなることも忘れて、
持っている限りの食糧をやってしまう。
携帯口糧が少しずつ難民に分配される。
煙草をやる。
水筒の水をやる。
兵隊はすっからかんになる。
子供たちの頭を兵隊はなでてやる。
こういうときに兵隊の心の中には、
きっと故郷のことが思い出されているのであろう。
(下略―)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
―以上:H君の報道記事より―
バターン死の行軍とは・・・
7万5千もの敵兵(比島兵:米兵)が、
その半数にもみたぬ日本兵にの前に投降して来るなどということは、
残念ながら日本軍の常識にはなかった。
日本兵にも食糧なく、輸送手段なく、・・・
そんな状況の中、米兵の肩までしかない、小さな一人の日本兵が
二百、三百、五百の敵捕虜を監視して
徒歩による行軍を余儀なくされたために起こった悲劇である。
自分達の食糧も底がついた状況の時に、
日本兵の倍以上の捕虜が投降し、
それを徒歩で引率しることになったことが・・・
後に「バターン死の行進」として日本軍の残虐行為に数え上げられ、
本間雅晴中将が戦犯として銃殺される事になった顛末の真相である。
日本軍がバターン半島に攻撃を敢行せず、
封鎖して敵の自壊を待っている作戦を取っていれば、
事情は一変して、戦後非難の的になったのは、
おそらく敵側指揮官になっただろう。
当時の事情をよく知る生き残りの兵隊や報道班員たちは
こんな一事をもって、公然と口に出さなくとも、連合軍の正義など
腹の底から信じ得なくなってしまっていることだろう。
バターンの戦いは敵兵(7万)であったが、
アメリカ軍(米兵9千人:病院収容中の米兵1,600人)が
指揮をとっていたが大半は比島兵 。
コレヒドール島(東西六,2キロ、南北2,1キロ)の攻防。
ここには比島人は近づけない。白人の砦であった。
アメリカが不落を世界に喧伝していたコレヒドール島は、
砲撃開始から22日目、上陸敢行してから
たった一日足らずで落ちてしまった。
全体的には、同程度の武器を持って相対すると、
日本側が圧倒的に勝つのだという大本営や第14軍司令部の面目は、
世界に向かって一応立った事になる。
同12日、コレヒドール島で戦況を見守っていたマッカーサー司令官は、
ルーズベルト大統領の命を受けて
妻子などと魚雷艇でコレヒドール島を脱出した。
ミンダナオ島からは爆撃機でオーストラリアに向かった。
ダーウィンに到着後の記者会見で、有名な
「I shall return(わたしはまた帰る)」と述べた。
しかし、残された米比部隊にとっては、いかに大統領命令であろうと、
最高司令官の戦線離脱、敵前逃亡に変わりはなかった。
感想
日本軍の進撃に度肝を抜かれ、
圧倒的優勢なはずの比島兵・米軍があっけなく降伏をしたために、
突出して進軍していた日本兵がその捕虜達を
後方に護送して行く時に、起こった悲劇である。
日本軍も食糧なく疲労困ぱいの時に
捕虜である敵兵をどうして優遇できようか・・・。
バターン死の行軍というのは、
卑怯にも敵が戦わずして投降したための自業自得という他はない。
本間雅晴中将が処刑されたのは、勝者の復讐というしかない。
戦略とはいえ、この時、部下を残して敵前逃亡したのがマッカサーである。
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