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イスラエル・ロビーの圧力によって議会を追われたアメリカ議員たち
- 2008/03/05(水) 04:34:10
http://inri.client.jp/hexagon/floorA1F/a1f1408.htmlより転載
イスラエル・ロビーの圧力によって議会を追われたアメリカ議員たち
■■チャールズ・パーシー議員の場合
上院議員チャールズ・パーシーが1984年、
イスラエル・ロビー団体「AIPAC」の圧力によって
アメリカ議会の議席を追われてしまった。
この選挙結果は、その後「パーシー現象」とさえ呼ばれ、
他の議員たちを震憾させるイスラエル・ロビーの脅威のシンボルとなった。
「イスラエルは和平交渉の機会を見逃してしまった。
アラファトPLO議長は他のリーダーたちに比べ穏健派の指導者だ。
PLOがテロ行為を放棄し、
イスラエルが安全で防衛可能な国境内で生存する権利を承認したら、
イスラエルはPLOと対話すべきだ」
というパーシーの発言から1週間後、
そのオフィスには2200の電報と4000通の手紙が殺到した。
その95%がこの発言に反発するもので、
シカゴ市内外のユダヤ人たちから寄せられたものであった。
彼らは今後、選挙での支持をやめると脅迫した。
イスラエル・ロビーが1984年の選挙でパーシー議員つぶしのために
全米に動員をかけるきっかけの一つとなったのが、
1981年、レーガン前大統領が提出した
サウジアラビアヘのAWACS(空中警戒管制機)の売却問題であった。
イスラエルとそのロビーは、AWACSによってイスラエル空軍の動きを
サウジアラビアに調査されてしまうと、猛反対した。
当時、外交委員会の委員長であったパーシーは、
アメリカの国益をイスラエルの国益より優先させ、議会で売却賛成の投票をした。
AIPACの戦略は、パーシーを「反イスラエル」
「議会でのイスラエルの最大の敵」として描き出し、攻撃する方法だった。
果たして選挙の結果、8万9000票の差でパーシーは敗れた。
1972年には70%も獲得したユダヤ人票は、
この選挙では35%までに落ち込んでしまった。
ダインAIPAC代表は、
「全米のユダヤ人がパーシーを追い落とすために集結した。
今や政治家、公の立場にある人々、またはそれを志す人々は、
私たちユダヤ人社会の“メッセージ”を受け取った」と豪語した。
■■ポール・マクロスキー議員の場合
親イスラエル派だったポール・マクロスキー元下院議員が、
イスラエルの政策に疑問を抱き始めたのは、
「一国以上の正規軍に攻撃されたときのみ使用できる」
というアメリカ政府との合意を無視して、
1978年にイスラエルがアメリカ製のクラスター爆弾を
南レバノンで一般市民に対して用いたときであった。
1982年のレバノン侵攻でもイスラエルは再びこの協定を破った。
マクロスキー議員はアメリカの
多額なイスラエル援助を修正すべきであると議会で主張した。
だが他の議員たちは、その修正案への投票を迫られることを恐れて、
その案の提出をマクロスキー議員に思いとどまるように説得しようとした。
アメリカの海外援助の4分の1
という高い率のイスラエル援助を快く思わない議員たちも、
これに反対していると記録されることは避けたがる。
AIPACを恐れるからだ。
しかしマクロスキー議員はその“タブー”を敢えて破った。
1982年、マクロスキーが共和党から
カルフォルニア州の上院議員候補に推薦されたとき、
イスラエル・ロビーは“マクロスキー降ろし”に
在米ユダヤ人社会を動員したのである。
果たして選挙結果は、トップに10%の差で落選した。
『ワシントン・ポスト』はこの選挙結果を
「ユダヤ人の選挙運動がマクロスキーを破った」と結論づけている。
ユダヤ人社会のマクロスキーへの攻撃の手は、
彼が議会を去ったあとも止むことはなかった。
マクロスキーは大学の同窓生の法律事務所で弁護士の仕事に戻ろうとした。
だが、この事務所の最大の取引先である会社の社長は、
もしマクロスキーを雇うつもりなら
取引先を他の法律事務所に移すと通達してきた。
「イスラエルに対するマクロスキーの見解のため」という理由だった。
友人に迷惑がかかることを懸念して、
彼はその法律事務所での仕事を辞退した。
今度はサンフランシスコ市のある法律事務所から弁護士として招聘された。
しかし彼に対する圧力はそこまでついてまわった。
ユダヤ組織「ADL(ユダヤ名誉毀損防止連盟)」の追及は、
マクロスキーの私生活にまで及んだ。
またその妨害の手は大学にまで伸びた。
スタンフォード大学でアメリカ下院議会について講義を依頼され、
これを引き受けたマクロスキーに、ユダヤ人学生組織「ヒレル」は猛反対したのだ。
■■ポール・フィンドリー議員の場合
22年間、下院議員を務めてきたポール・フィンドリーが
AIPACの標的となったのは、彼が1978年にアラファトPLO議長と会談して以来、
パレスチナ人の自決権にも理解を示す態度をとったことによる。
イランのアメリカ人人質解放のために、
秘密裏にアラファトの援助を要請するアメリカ政府の求めに応じて、
PLOとの仲介役も果たした。
イスラエル・ロビーのフィンドリー潰しは1980年の選挙から始まった。
対立候補の選挙資金を集めるため、AIPACは、
「フィンドリーはアメリカ議会史上、最悪の敵で、反ユダヤ主義者」
と全米のユダヤ系新聞に広告で訴え、
「この議員を破るために寄金を」と呼びかけた。
またフィンドリーの講演や選挙演説にも、
AIPACが動員したと思われる運動員たちが、
演説中に「PLO支持者!」と罵声を浴びせ妨害した。
シカゴでの外交問題の講演では、
ある男が「この会場に爆弾が仕掛けられている!」
と叫んだため会場は大混乱に陥り、講演が中止されてしまったこともある。
親友やこれまでの支持者たちもフィンドリーから遠ざかっていった。
友人で彼の支持者であった元連邦準備委員会の委員長は、
選挙のための推薦状を依頼したフィンドリーに、
「君のPLOに対する見解のために、それはできない」と通告してきた。
様々な妨害にもかかわらず、1980年の選挙で
辛くも再選を果たしたフィンドリーも、2年後の選挙では、
さらに強化されたAIPACの反フィンドリー・キャンぺ一ンの影響で、
遂に千数百票という小差で敗れてしまった。
このときもダインAIPAC代表は、
そのフィンドリーの敗北がAIPACの力によることを誇示した。
自らの体験で、アメリカ議会における
イスラエル・ロビーの強大な影響力を知ったフィンドリーは、その後、
このAIPACの実態を丸2年がかりで取材・調査し、
著書『彼らは敢えて証言する』を出版した。
その本はワシントンを中心に大きな反響を呼び、
9週間連続で『ワシントン・ポスト』紙のベストセラーのリストに挙げられた。
■■ウィリアム・フルブライト議員の場合
日本でもおなじみのウィリアム・フルブライト。
彼は戦後日本がまだ貧しかったときに、
日本の青年たちのためにアメリカ留学の基金をつくった
上院議員として有名である。
しかし今、フルブライトは議員ではない。
年を重ねたから辞めたのではなく、イスラエルにとって不利な発言をしたから、
AIPACによって落とされた。
フルブライトは、アメリカ外交はアラブ諸国と
イスラエルとのバランスの上に立たなければならない、
という意味の発言をした。
それがAIPACの激しい攻撃を受けたのである。
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