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セシル・ローズ

  • 2008/02/24(日) 11:43:22

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ウィキペディアより

ローズは地主出身の牧師の子に生まれたが、
生まれつきの病弱を心配した父は、
気候のよい南アフリカに行っている
ローズの兄のもとに彼を送った。
健康を取り戻したローズは、

兄とともにキンバリーで坑夫として「つるはし」を振るった。

彼はダイアモンドを掘り当てて作った資金で、
ダイアモンドの採掘権への投機を行ったり、
採掘場への揚水ポンプの貸し出しで儲け、
ロンドンのユダヤ人財閥ロスチャイルドの融資もとりつけて、
1880年、デ・ビアス鉱業会社を設立した。

この会社は、ほぼ全キンバリーのダイアモンド鉱山をその支配下に置き、
全世界のダイアモンド産額の9割を独占するに至った。
彼はデ・ビアス鉱業会社を通じてトランスヴァール共和国の産金業にも進出して、
世界最大の産金王にのし上がるとともに、
南アフリカの鉄道・電信・新聞業をもその支配下に入れるまでになった。

ローズはこの経済力をバックに政界へも進出し、
1880年、ケープ植民地議会の議員、
84年に大蔵大臣になり、
90年には遂にケープ植民地の首相にまで上り詰めた。

この間彼は、マタベリ人の酋長に武器弾薬を提供し、
それと引き換えに鉱山の利権を獲得したり、
1889年、イギリス政府要人を買収して、
征服地に対する警察権・統治権をもつ南アフリカ会社設立の特許を獲得したりしている。

1894年、ローズはこの会社を盾に、
遠征軍をマタベリ人やマショナ人の居住区に派遣して、
イギリス本土の4倍半にも相当する
広大な土地を奪って南アフリカ会社の統治下に置いた。
会社はこの地を、征服者ローズの名にちなんでローデシアと命名した。

ローズは首相として数々の政策を行ったが、
それらはすべて、大英帝国のもとに
南アフリカに広大な統一された植民地、
南アフリカ連邦を建設することを意図して行われたものであった。

彼はまた、ケープとカイロ間を電信と鉄道で結ぶ計画
(いわゆる3C政策の一環)を推進した。
ローズはまさに南アフリカの政治・経済の実権を一手に握り、
その威風は帝王を思わせ
「アフリカのナポレオン」と呼ばれた。

“神は世界地図が、より多くイギリス領に塗られる事を望んでおられる。
出来る事なら私は、夜空に浮かぶ星さえも併合したい”
と著書の中で述懐した事はあまりにも有名。

ローズの失脚

その得意の絶頂が、1つの事件で一挙に崩れることになった。
彼は勢いに乗じて、トランスヴァール共和国を
一気に征服、併合する計画を立てた。

トランスヴァール内のイギリス人に密かに武器弾薬を送り込み、
反乱を起こさせ、その支援を口実に
ジェームソンの指揮する会社軍を派遣して、
一挙に併合してしまおうというものであった。

しかし、反乱を起こすことに失敗し、
ジェームソン率いる南アフリカ会社の軍隊が国境を越えたとの知らせに、
ボーア人は直ちに反撃を開始して会社軍を包囲し、
全軍を捕虜にしてしまった。

この事件は、ボーア人の怒りを買うとともに、
広く世界中の世論の非難を浴びることとなった。
この世論に押されてイギリス政府もローズを助けなかったため、
ローズは1896年、首相と南アフリカ会社を辞めざるをえなくなり、完全に失脚した。

イギリスは世論の沈静化を待って、
この2つのボーア人の国に対する本格的な戦争である
ボーア戦争(南アフリカ戦争・1899年〜1902年)を開始した。

ローズは、ボーア戦争が始まるとすぐキンバリーで
ボーア人に包囲され、救出されるまで4ヶ月間もかかった。
この間健康を悪化させ、一旦ヨーロッパへ帰り再度ケープタウンへ戻り、
戦争終結2ヶ月前にムイゼンバーグで49歳の若さで死んだ。

生涯独身を通した彼は、
600万ポンドに及ぶ膨大な遺産の大半をオックスフォード大学に寄贈した。
大学ではローズ奨励基金として、
現在も毎年多くの学生に奨学金を提供し続けている。

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