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アジア連合構想
- 2008/04/19(土) 19:53:39
上海協力機構 ウィキペディアより
原加盟国
中華人民共和国
ロシア
カザフスタン
キルギス
タジキスタン
ウズベキスタン
オブザーバー加盟国
モンゴル
インド
パキスタン
イラン
加盟申請国
アフガニスタン
ベラルーシ 
青が加盟国、緑はオブザーバー
世界単一通貨の名前は モンドより
『ウェルナー・プラン』では,
「世界の通貨体制をドルとユーロが引っ張り,
しかる後にロシアを中心とするルーブルと
中国・日本圏という少数の通貨圏をまとめ,
最終的に世界通貨『モンド』を導入する」となっている。
それがいいのか悪いのかという議論は一切なく、
良かろうが悪かろうが、「これをやる」ということなのだ。
北京オリンピックを前に中国が騒がしいが、
中国の行く末、レールはもう敷かれています。
ロシア、中国、インド、日本を中心としたアジア連合です。
3つ目のスーパー国家です。
オーストラリアはわかりませんが、
アフリカはこの構想から外れてしまいます。
アフリカがどうなるか
アフリカの現状を見ればおわかりのはずです。
アジア連合という高所から見れば、
チベット問題は小さな問題に過ぎません。
北京オリンピックが失敗して中国の面子丸つぶれでも、
大した問題ではありません。
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「暁に祈る」という事件
- 2008/04/19(土) 15:04:28
平和祈念展示資料館 より転載
実名報道
昭和24年「暁に祈る」という事件が朝日新聞の報道により世間に登場した。
ウランバートル郊外にあった収容所で
戦犯追及を逃れるために偽名を使っていた元憲兵伍長が、
ソ連軍の管理将校に取り入り、隊長になって、
暴力支配体制を敷いて収容仲間を酷使したという。
さらに、作業能率の低い者や逃亡に失敗した者を
棒杭に裸のまましばりつけて終夜放置し、多数を凍死させたという。
明け方、頭を垂れて絶命している姿が祈っているようであり、
「暁に祈る」と呼んだというのだ。
「吉村」と自称していた「隊長」が長崎県に帰国していることが判明、
朝日新聞が「生きていた吉村隊長」と
実名で報じたことから大変な騒ぎとなった。
元隊員達は、殺された戦友達の弔いの行動に出た。
そして、国会が真相究明に乗り出す事態になった。
昭和26年、吉村隊長は国外犯として刑事責任を追及され、
元隊員達の証言などから有罪となり、懲役3年の刑が確定した。
吉村隊長の母親は朝日報道を苦に自殺していた。
虚報は歴史となった
現在この話は「吉村隊長事件」「暁に祈る事件」などとして多くの書物に載っている。
事件は事実だったと信じている人が多い。
ところが、これは朝日新聞の嘘報が招いた冤罪であった。
吉村氏は服役し出所後は行商などで生計を立てながら無罪を主張し続け、
それを受けて弁護士やジャーナリストなどが事件を再調査、
やはり無実であったとの報告が昭和63年にまとめられた。
しかし、再審請求をする間もなく翌年の平成元年、吉村氏は73歳でこの世を去った。
朝日の第一報は噂話をもとに創られたもので
当の吉村隊長には一切取材をしていない。
続報の途中、朝日側は嘘報に気付いていた。
しかし、朝日新聞は訂正するどころか
必死になって糊塗する動きにでた。
何が何でも吉村氏を「悪魔の極悪人」に仕立て上げ、
「吉村を裁け」という世論を高めるため、
朝日紙上で繰り広げられた弾劾キャンペーンは激烈を極めた。
吉村氏本人や、氏のため真実を語ろうとする人は、
朝日という強大なメディアによって犯罪人としての指弾を受けた。
反論を全く封じられた吉村氏は、為す術もなく服役させられたのだった。
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「シベリア抑留」
- 2008/04/19(土) 14:56:31
平和祈念展示資料館 より転載 
ラーゲリの模型
収容所四隅からはソ連兵の銃口が一日中監視していた。
ただ働きの囚人
ソ連側の連行・抑留は、戦争で破壊されたソ連経済を復興開発するための
労働力として日本人を利用するためであった。
それは奴隷となんら変わらない。
入ソした人たちは、極東、中央アジア、シベリア、
モスクワ以東のヨーロッパ・ロシアの2千余りの収容所に連行され、
鉄道敷設、炭鉱・鉱山労働、森林伐採、農漁業、都市建設などで酷使された。
その中でも鉄道建設や鉱山作業は、最も危険で過酷なものであった。
スターリンが最優先したバム鉄道建設には、
「枕木一本ごとに日本人一人の亡き骸が眠っている」
と言われるほど苛烈な突貫労働を強いられた。
加えて食料不足と非衛生的施設への収容という厳しい生活条件の中、
病死や事故死、自殺などで多くの死者が出た。
「働く動物」となりながら、ひたすらダモイ(帰国)を夢見て、今年こそは、
今年こそは帰れるかも知れない、と先の見えない強制労働を耐え抜いたのだった。
過酷なノルマ
過酷なノルマが割り当てられ、ノルマが達成できなかった者には
営倉にぶち込むなどの懲罰が待っていた。
しかもノルマは一定不変のものではなく、達成すれば必ず上昇する。
日本人はバカ正直に働き、自分たちでノルマ量を引き上げてしまったのであった。
ノルマ達成の出来不出来はすぐさま食事の増減にも反映された。
達成率の低い者の量を削り、優秀者の分に増やすという方法で、
ソ連側は簡単に労働の督励ができたのである。
▲1日の食事の再現◆
朝食・薄いスープと殻付き高粱のおにぎり、昼食・黒パン、夕食・薄いスープと雑穀。
もともと少ない分量、それも粟の薄いお粥か、
雑穀を混ぜ合わせて焼いた黒パン一片。
ときには馬の餌までが与えられた。
▲黒パンを秤で厳密に分配している
ノルマ達成如何では量を減らされる。
極寒のなかの重労働である、食い物がないと力が出ずノルマに達しない、
するとさらに食事を減らされるという悪循環。
食料の分配はまさしく命に直結していた。
最悪の環境・ラーゲリ
厳しい労働、貧しい食事に加えて、
「音さえ凍る」といわれる零下40度から60度の
恐しい寒さは日本人にはまさに地獄であった。
防寒具を着けていても手が凍え、足が凍え、身体が凍え、
居たたまれず地団駄を踏み、大の男が声をあげ本当に泣いたという。
涙も瞬時に凍ってゆく。
多くの人が凍傷に倒れた。
宿舎は掘っ建て式の丸太造りのバラックが主で、
収容者が自分たちで作らされたものが多かった。
床は板張りか土間、ベッドも丸太か板で一人が占める幅は50センチもない状態だった。
衣服や暖房設備も不十分で寒さのあまり一晩中立っていたこともあったという。
栄養不良のうえに下痢が追い打ちをかけ、
入浴もろくにしないので不潔な衣服に虱が全身を這い回る。
夏には南京虫が襲いかかった。
抑留中の死因は赤痢やチフスなどの伝染病、
栄養失調症といった病気がほとんどだが、
事故死、自殺、空腹で野草を食べての中毒死なども少なくなかった。
ただでさえ少ない抑留者の食料を収容所の職員が掠めていた。
抗議してその場で射殺された日本人もいた。
作業現場への行き帰りも監視のソ連兵にせかされ、
体力が落ちて遅れた人が射殺されたこともあった。
逃亡を図ったというのである。
威嚇射撃は茶飯事であった。
「笑った」という理由だけで監視兵に射殺された人もいる。
▲手製の靴下
▲ラーゲリ宿舎内部の再現
シベリア抑留(シベリア捕虜収容所)
- 2008/04/19(土) 14:38:55

ラーゲリの再現
シベリア抑留(シベリア捕虜収容所) より転載
さて、ソ連に抑留された日本人の数は約60万人と推定されており、
その大部分の人が何年にもわたる強制労働を強いられたのである。
ソ連軍は日本兵を約1千人を単位とする”作業大隊”(569個)に編成し直した。
その際に従来の部隊に関係なく、
各種の部隊を混在(数個〜十数個)させた。
適当に団結力のない管理しやすい集団を作ろうとしたのであろうか。
作業大隊の指揮には、
下級将校(大佐、中佐クラス)それも最小限の人数のみを残し、
他の大部分の将校は、下士官、兵(作業大隊)と分離して
”将校大隊”に編入された。
こうして旧日本軍の組織は完全に破壊された。
日本兵は、シベリア(47万2千人)をはじめ
外蒙古、中央アジア、ヨーロッパ・ロシアなどの捕虜収容所等に分散収容された。
そして、大部分の日本兵(将校大隊を除く)は、
それぞれの地域にある一般強制労働収容所(ラーゲリ)で
強制労働をさせられることになったのである。
”音さえ凍る”といわれる極寒の地シベリアの自然環境は厳しい。
その中で、捕虜たちはおもに屋外での重労働に従事した。
過酷な”ノルマ”(達成目標)に対して与えられる食料はとぼしかった。
収容所内で日本人指導者の地位に就いたのは、
いくつかの権力闘争の末(昭和23年春頃)、最終的には多くの場合、
日本での教育年数の少ない25歳以下の下級兵士であった。
彼らは作業大隊の指揮権を下級将校から奪い取ることによって
思いもかけない”権力の座”についた。
そして”アクチーブ”(積極分子)としての特権をほしいままにしたのである。
特権の第一は、なんといっても過酷な労働から解放されることである。
さらに炊事場を監督下におくことによって食物の心配をする必要がなくなる。
こうなればシベリアの極寒もあまり気にはならないだろう。
しかしその彼らを任命するのはソ連当局である。
意に沿わない行為をすればたちまちにしてその立場を追われることになる。
アクチーブになるために、そしてなってからも積極的な”学習”と”活動”が求められた。
ソ連当局にとって民主運動のねらいは、
1)日本人捕虜に共産主義の考え方を叩き込むこと、
2)前職者の告発、
3)捕虜を労働にかりたてること、にあったと思われる。
ここで前職者とは、参謀、特に情報参謀、特務機関、憲兵隊、警察などの職を
一度でも経験した者のことをいうそうである。
”反動”すなわち軍国主義、ファシズム思想をもつ者という意味であろうか。
さて、アクチーブの活動はこれらソ連当局の意向にそったものとなるのは当然である。
収容所内での民主運動学集会を開催して講師を務める。
その成果によって、より上位の学校で学ぶ機会を得る。
などといった実践が続いた。
アクチーブが中心になって反動を批判攻撃するために、
しばしば激しい”吊し上げ”が全員参加で行われた。
ここで反動とは、前職者、軍国主義者に限らず、
共産主義ソ連の反対者全般と言うことになるが、
反動がほとんどいなくなった後では、
アクチーブ自身の地位安泰のために、ささいな言いがかりをつけて
反動を無理やり作り出すといった状況が見られた。
反動は永久に帰国させない、というおどしをかけられ、
事実帰国を遅らされる者が相次いだ。
こうして多くの者は、次々と自己批判をして
”ダモイ(帰国)用民主主義者”となっていった。
反動から民主主義者へ転向した証しを示すには積極的な活動をする必要があった。
まだ残る反動を吊し上げて罵詈雑言を浴びせること、
あるいは前職者の密告、そしてでっち上げまで行われた。
多くの抑留者(短期抑留者)が帰国した後には、
こうした”前職者”が”受刑者”として取り残された。
彼らはソ連国内法で裁かれ、20年、30年という異常に長い刑期を言い渡された。
そして、 日本人同士の受刑者は互いに切り離されて、
ソ連人やその他外国人受刑者の中に、多くの場合たった一人で放り出された。
しかも捕虜という身分を失ない、ただ単なる外国人犯罪者として
日本国内での関心の対象からもはずされていったのだった。
様々な交渉の末、なんとかシベリア長期抑留者の引揚げが
一応完了したのは1956年(昭和31年)12月26日である。
その総数2689人、帰国船が入港するたびに、
そこには今日も待ちつづける”岸壁の母”がいた。
シベリア抑留の本当の意義は、極限におかれた
日本人のモデルを示したことにある、といえるだろう。
大多数の日本兵(将校も含めて)は、
ソ連当局の過酷な要求を前に団結して戦うことは決してなかった。
逆に洗脳されて民主化運動という熱病に侵されてしまった。
ヨーロッパ諸国(ドイツ、イタリアなど)の捕虜にはみられない行動パターンである。
将校の中で彼らの部下である兵士の待遇改善に尽くしたものはほとんどいない。
それは、作業大隊から切り離された上級将校および
作業大隊を直接指揮する立場にあった下級将校ともに同じである。
将校たちは、民主化運動の高まりの中で
なすすべもなく権力の座を下級兵士に明渡してしまった。
そして一部兵士の中では、自分の欲得のみを考え、
帰国のためには友を売り渡すような裏切り、背信行為が 行われた。
ソ連抑留者総数60万人から短長期抑留帰国者数を差し引くと、
死亡・行方不明者約6万9千人(全体の1割強)となる。
対ソ戦の戦死者は2万7千名と推定されており、
戦闘が終了した後に、戦時に倍する以上の人がむなしく死んでいった計算になる。
また、無事帰国できた人々も肉体的・精神的に大なり小なりのダメージを受けていた。
なお、短期抑留者の帰国直後の時期に、
民間人約3000人が樺太に抑留(主として経済犯として)されていたという。
関東軍を中心とする将兵だけでなく
抑留の対象となった一般民間人がいたのである。
▲両袖のない防寒外套。
あまりの空腹に耐えかね、片袖ずつロシア人労働者の持っていたパンと取り換えた。
当時は一般ソ連人も極貧の極みだった。
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