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隔離、労働、死のための強制収用所 1
- 2008/04/07(月) 17:46:40
強制収用所は目的によって3つに分類できます。
ボーア人に対する隔離が目的の収容所。
ベルギーのドイツ人捕虜に対する労働が目的の収容所。
アイゼンハワーがドイツ人捕虜を殺害した「死の収容所」。
これは殺害が目的です。
ナチスがユダヤ人に対して行った強制収用所は、隔離が目的です。
http://www.erichufschmid.net/TFC/video/Eisenhower-Death-Camp.wmv
このビデオでは、ユダヤ人が囚人服を着ております。
囚人管理をしやすいように、タトゥー(いれずみ)をされたユダヤ人もいます。
ナチスはユダヤ人のために食堂まで設けています。
殺害が目的であれば、このようなものは必要ありません。
アイゼンハワーのように、
水も食料も与えずに餓死するのを待っていればよいのです。
この方法は手間も時間もかかりません。
だから、簡単に100万人を殺害できたのです。
べつのビデオではスポーツや音楽を楽しんでいるユダヤ人の姿もあります。
死の収容所ではテントやバラックは不要です。
これだけで「死のキャンプ」
ではないといってよいかもしれません。
メンゲルのように大勢の子供を殺害したのは事実です。
大勢の人が死んだが、それはチフスのせいです。
戦局が悪くなって、労働力不足を補うためにユダヤ人を働かせました。
アウシュビッツは死の強制収用所ではなかった。
ユダヤ人をパレスチナに移住させるために、隔離していたのです。
しかし、シオニストは移住を拒絶し、ユダヤ人を見殺しにした。
ソ連の強制収用所は何の目的かよくわかりません。
2000万人が死んだという説では、死の収容所と言ってよいかもしれません。
道路や橋の建設に使役させられたところをみると、
労働が目的であったと言ってもかまわないかと思います。
しかし、収容者が建設した道路や橋は寸断されたままで、
現在ではヘリコプターでないと行けないそうです。
日系人が収容されたアメリカの収容所は隔離が目的です。
しかし、ルーズベルトの目的は
なかなか開戦を認めなかった国民に対する一種の宣伝ではないかと思います。
ケニアの強制収用所は収容者が黒人であることです。
イギリス人は黒人を奴隷と思っていたのです。
第2次世界大戦が終わっても。
ベトナムやイラクでは強制収用所はありません。
けっしてアメリカが人道的になったからではありません。
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ケニヤが今こわれかけている(2)
- 2008/04/07(月) 14:58:57
マウ・マウの反乱というのは俗称で、
英国の公式筋は「ケニヤ非常事態(Kenya Emergency)」と呼び、
反乱とか蜂起という表現は一切使いませんでした。
ケニヤ植民地の非常事態宣言は1952年10月に行われ、
1960年1月にやっと終了宣言、
騒乱は実に7年間以上も続きました。
白人の黒人圧政の手先になって甘い汁を吸っていた
一人の黒人首長(ワルヒウ)が
マウ・マウ運動参加者の手にかかって殺された直後に、
非常事態の宣言がなされたのは事実ですが、
黒人のさらなる原始的残虐行為の広がりを防止すべく、
やむなく白人側が反応したと想像するのは誤りで、
黒人たちの土地分配の改革要求と民族独立の動きを押さえ込もうとして、
支配者側が仕掛けた先制攻撃の性格が強かったと考える方が正しいのです。
“The White Highlands” と呼ばれる
ケニヤ中南部にひろがる高地地帯で白人に圧迫されて、
ナイロビなどの都会に流れ込み、
そこで貧困層を形成する黒人労働者の数も大きく膨らんで行きました。
こうして、キクユ族をはじめとする原住民一般の生活状況は
悪化の一路をたどったのですが、更に悪いことに、
白人側は昔からの部族長などを優遇することで、
彼等を味方につけ、黒人社会内に分裂を生じさせる政策を取ったので、
マウ・マウの騒乱はやがて黒人間で骨肉相食む様相を呈することになり、
それは遠く現代ただ今のケニヤの危機にまで尾を引くことになります。
先手を打って、過去の長い間抑圧されてきた黒人たちの怒りが
白人排斥と民族独立の運動へと高まる芽を摘み取ろうとしたのでした。
1960年6月末に新しく独立したコンゴ共和国の新首相ルムンバは
半年後にはアメリカの意向に従って暗殺されたことが思い出されます。
ケニヤッタの影響の封じ込めは
英国の偽善性を示すお手本のような形で実行されました。
その裁判は、ケニヤッタに不利な証言をする証人には報償が提供され、
賄賂を受け取った英国のベテラン裁判官が、
開廷以前に、ケニヤッタ有罪の判決を
植民地司政官に約束するという怪しからぬものでしたが、
表向きは立派に法的手続きを踏む体裁が整えられ、
その一方で、ナイロビ空港には英本国から新鋭の数百人の部隊が到着し、
一気に軍事的制圧の挙に出ました。
先手を打たれたマウ・マウの武装勢力は対決を避けて森林地帯にまずは隠れ、
ゲリラ闘争体制の本格的整備に取りかかります。
マウ・マウ側が槍や刀を持った裸の野蛮黒人集団だと想像するのは間違いで、
森の中のゲリラ戦力のコアは、
第二次大戦で英国軍に編入され、
アフリカ内のみならず、ヨーロッパや東南アジアにも転戦した元兵士たちで,
銃火器の使用も身に付け、その数も万を越えるものでした。
ケニヤッタを含む6人のキクユ指導者たちの裁判の
最初の休廷期間が始まった1953年1月24日の夜、
若い白人農園主夫婦と6歳の男の子の一家が、
それまで従順忠実に仕えていた召使いたちによって、
滅多切りされるショッキングな惨殺事件が突発しました。
翌日ケニヤ内外の新聞が
6歳児の無残な死体の写真を一斉に掲載したことにも煽られて、
千五百人をこえる白人居住者がナイロビの植民地政庁に押しかけ、
マウ・マウの即時皆殺しを要求し、
それに応えてマウ・マウのゲリラ勢力に対する
激しく容赦のない攻撃作戦が実行されました。
攻撃軍側は、英国の白人正規軍に加えて、
ウガンダなどの隣国から集めた黒人傭兵と
ケニヤ内の黒人で白人側についた方が得と考えた
ケニヤ内の黒人たち(ロイヤリスト)から成っていました。
白人側とマウ・マウ・ゲリラとの軍事力の差は余りにも大きく、
軍事抗争としては、翌1954年の末頃には勝敗の大勢は決し、
1956年10月にマウ・マウの指導者キマシの逮捕で終焉しました。
しかし、上述の通り、ケニヤの非常事態の終了が宣言されたのは
1960年1月になってのことでした。
この5年余りの間にケニヤの在住白人と英国政府が
戦闘能力のないケニヤの原住民老若男女に加えた残虐行為は恐るべきものでしたが、
それが意図的に隠蔽され、
ケニヤの黒人以外の世界の人々(我々を含めて)の記憶には、
その昔、ケニヤにマウ・マウ団という
原始的な残忍さで多数の白人の命を奪った
黒人の秘密結社があったという形で残っているわけです。
マウ・マウ騒乱関係の死者数の統計を見てみましょう。
非常事態の期間中にマウ・マウ側は英国側の兵士と警官約2百名、
英国側に付いた一般の黒人約2千名を殺し、
これに対してマウ・マウの戦死者は2万人以上、
これに加えて、1091人が英国当局によって集団的に絞首刑に処せられ、
15万人以上が強制収容所の中に拘束されて
その数万人が死んだと考えられます。
収容所内の生活環境はひどいもので、
囲み込まれた黒人たちは言うことを聞かない家畜のように鞭打たれ、
傷害と疾病と飢餓で死んで行きました。
一方、8年にわたるマウ・マウ騒乱中に殺害された白人居住者は僅か32人、
これは同じ期間にナイロビ地区で交通事故死した白人より少ない数でした。
マウ・マウが未開人らしいむごたらしさで
多数の白人を殺め続けたという印象は演出された印象であったのです。
この誤った歴史記憶が発生した第一の理由は
当局の事実隠蔽とプロパガンダにありますが、
マウ・マウ側が白人の圧政に反逆する集団としての団結を固めるため、
運動参加者には山羊や人間の血による血盟誓約の秘儀が課せられ,
その意味でマウ・マウは秘密結社の性格を持っていたことが、
白人たちに恐怖心を与えたこともその大きな理由になりした。
黒人の誰がマウ・マウであるかを知るために、
きびしい拷問が使われるようになったのは、
日本の隠れキリシタンの場合と同じでした。
しかし、キリシタン弾圧とマウ・マウ弾圧との間には一つ決定的な違いがあります。
殺す側が殺される側を人間以下と看做すか看做さないかという点です。
こうなれば,人間以下の生き物を殺すのに何の躊躇もいりません。
この至極都合の良い思考転換もまた
英国人(アングロサクソン)の一貫した歴史的伝統です。
当時のケニヤの白人の間で
“The only good Kuke is a dead Kuke”
「良いキューク(キクユ人)は死んだ奴だけ」
という言葉がしきりと聞かれました。
マウ・マウ騒乱の90年ほど前、
アメリカ西部の大平原で先住民インディアンを容赦なく殲滅していたシェリダン将軍が
“The only good Indian is a dead Indian”
と言い放った話は有名で、ケニヤの白人たちがこの言葉の真似をしたのは明らかです。
マウ・マウ騒乱から僅か数年後に
アメリカ軍はベトナムでベトナム人を虫けら同様に殺戮し始めます。
そこでは“The only good gook is a dead gook”という言葉が語られました。
[gook] とはベトナム人を意味します。
前回で紹介したエルキンスさんの本の第3章のタイトルは“Screening”です。
この英語は、ケニヤ非常事態下のキクユ族の人たちに襲いかかった
苦難を指す象徴的な単語で、
原住民たちは今も原語を強いアクセントで使い、
彼等の言葉には決して翻訳しなかったといいます。
「スクリーンする」とは、
マウ・マウ団員と疑われる黒人から
マウ・マウ殲滅のために有用な情報を得るために行う
尋問とそれにともなう拷問を意味しました。
血盟誓約をした人たちにそれを白状させるのは大変でしたから、
血盟誓約をしていない、つまり、マウ・マウ運動に参加していない人々も
ひどい拷問の対象になりました。
老人や子供にもそれは及んだのです。
ケニヤの「スクリーニング」の残酷非道さは直ちに
イラクのアルグレイブ刑務所で行われた目を背けたくなる拷問につながります。
マウ・マウ容疑者(それは莫大な数にのぼりました)の受難は
上掲の著書に詳しく記述されています。
気分が悪くなるようなむごたらしさなので、
ただその一個所だけを英文で引いておきます。:
■ According to a number of the former detainees I interviewed, electric shock was widely used, as well as cigarettes and fire. Bottles (often broken), gun barrels, knives, snakes, vermin, and hot eggs were thrust up men’s rectums and women’s vaginas. The screening teams whipped, shot, burned, and mutilated Mau Mau suspects, ostensibly to gather intelligence for military operations, and as court evidence. ■
これは地獄です。
苦しんだ人々の数でいえば、これはアルグレイブの千倍万倍の地獄です。
よくもまあ、この地獄の記憶をうまくもみ消し、現在に及んだものです。
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ケニヤが今こわれかけている(1)
- 2008/04/07(月) 14:27:49
ケニヤが今こわれかけている(1)より
きっかけは、昔「マウ・マウ団の乱」と呼ばれた
ケニヤの原住民たちの反乱についての本を昨年後半に読んだこと、
次は、昨年年末に行われた大統領選挙に端を発したケニヤの政情不安です。
過去50年間、アフリカ大陸で政情の安定が最もよく維持された
模範的國家と看做されてきたケニヤが、此処に来て、突然、
いわゆる「失敗国家(failed state)」になってしまいそうなのです。
この國の過去に何があり、今、何が起りつつあるのでしょうか?
まず「マウ・マウ団の乱」について。
私の頭の片隅に残っている50年前のおぼろげな記憶によれば、
マウ・マウ団とはケニヤ在住の白人たちの無差別惨殺を実行した
原住民の野蛮な血盟集団で、
いたいけな子供たちを含む多数の白人たちを恐るべき残酷さで殺し続け、
英国政府はその鎮圧に手を焼いたという事件です。
これに似た印象をお持ちの方が多いと思います。
この印象の中核を占めているのは
アフリカの闇の奥からおどり出た恐怖の原始的残酷性であって、
正常な意味での政治的社会的要素ではありませんでした。
ポイントは、我々は英国という國の本当の姿を知らないということです。
これは真相暴露本とか国際陰謀説などのレベルの話では決してなく、
驚くべき無知の状態の中に
我々が置かれていたことに否定の余地はありません。
マウ・マウ( Mau Mau) の語源ははっきりしませんが、
マウ・マウ暴動への参加者の大部分はキクユ( Kikuyu ) と呼ばれる
ケニヤ最大の部族の黒人たちでした。
1895年から1905年にかけて、
ケニヤのインド洋岸のモムバサからケニヤ南部の高原地帯を貫通して
ユガンダに入る鉄道工事が英国によって進められました。
やがてその沿線の気候の良い肥沃な土地に
英国人を主とするヨーロッパ白人の入植者がどんどん乗り込んで来て、
コーヒーや茶などの栽培に最適の土地を
土着の住民から取り上げ、彼らを押し出して、
第2次世界大戦終了の時点で、3万たらずの白人が
占有する土地が100万人以上のキクユ黒人が押し込められた土地の6倍の広さ、
しかも農業に適した土地のほぼすべてを白人が所有するという状況になりました。
しかも入植白人の多くは本国で貴族等の上流階級の出で、
自ら手を下して農作業をする気は更々なく、
コーヒー農園は多数の黒人労働者の肉体作業に依存し、
自分たちは大きな邸宅で優雅に暮らし、猛獣狩りに熱を上げ、
あるいは首都のナイロビに形成された社交界に入り浸るといった有様でした。
ケニヤの白人たちのこの嫌悪すべき「優雅な生活」、
ブリクセン男爵たちの快適な生活は、
土地を奪われ、奴隷的使役と労働を強いられた
百万のキクユ族の上に王侯のように君臨することによってこそ可能でした。
ケニア 収容所の誕生
- 2008/04/07(月) 12:10:21
ボーア人は白人であり、戦後も仲良くやっていくつもりでした。
労働キャンプはありませんでした。
隔離だけを目的にしたものです。
第2次世界戦争後のことです。
ケニア人は黒人です。
強制労働が押し付けられました。
イギリスがケニアで行ったことはまるで新世界秩序の実験のようです。
1954年4月24日の出来事は、ケニアの拘留キャンプのシステムと
何万人ものマウマウ被疑者の生命に
取り返しのつかない変化をもたらした。
この日からケニアの英国軍はアースキン将軍の支配下に入り、
ナイロビからほとんど全てのキクユ族を駆逐し、
植民地支配の全ての権限を持つという野心的な作戦を行った。
この襲撃は「鉄床作戦」といわれるものだった。
ナイロビの「Dデー」(鉄床作戦ではそう呼ばれた)の朝、
アースキンは25,000人の治安部隊を展開し、
地区ごとに非常線を張ってアフリカ人の駆逐を行った。
将軍はこの方法を、英国が第2次世界大戦前にテルアビブで行った
「クリーンアップ」作戦からヒントを得た。
この作戦の成功の秘訣は「不意打ち」であった。
テルアビブと同様、ナイロビでも人々は、
アフリカ人もアジア人もヨーロッパ人も無防備で、
その次に起こったことはさながら「ゲシュタポ」同然だった。
軍用車に取り付けられたスピーカーから指示が流れた。
「鞄一つを持って、残りは自宅に置き穏やかに通りに出なさい。」
人によっては鞄に荷物をまとめる暇さえ与えられなかった。
人々は通りや仕事場に集められ、
治安部隊はドアを蹴破って家に入り込んだ。
アフリカ人達は一時的に鉄条網で囲ったエリアに集められ、
そこで雇用カードによりそれぞれの部族が確認された。
キクユ族と、それに近いエンブ族、メル族は、
その場でのスクリーニングのために、
他のアフリカ人から分離され、
他のアフリカ人は釈放され
それぞれの家に帰ったり、仕事場に行ったりした。
そこから彼らはスクリーニング行進をさせられ、
覆面をしたキクユ「忠臣」に数秒で運命を決められた。
ネルソンはその時のことを次のように言っている。
そこには多くの白人役人がいて、
私は覆面判定の前の長い列に並ばされた。
袋を被っている男の一人が、袋の穴を通して私をみた。
もし彼が頷いたら、それは彼が私をマウマウと認めたことになり、
私は役人に連れて行かれて、
他の危険人物と一緒にマウマウ組の柵に入れられる。
もし彼が首を振れば、私はマウマウでないと認められたことになり、
私は保護領に送還される。
私の場合、彼は頷いたので
私はランガタのスクリーニングキャンプに連れて行かれ、
そこで更に尋問を受けた後、拘留キャンプに入れられた。
植民地政府が非常事態宣言の最初から
収容所を作ることを想定していたかどうかは今となっては判らない。
ケニアや英国にいた植民地役人は
総じてマウマウ問題は3ヶ月もあれば終わると考えていた。
彼らは何千人かの政治犯を
総督の拘留命令によって捉えることは考えていたが、
それ以外にいる無数のマウマウ候補者を
投獄することまでは考えていなかった。
しかしマウマウの幹部を逮捕するだけでは
その活動を止められないとわかった時、
植民地政府は取り組み方法を考え直さなければならなかった。
状況が悪くなるにつれて、
既に行われていた非常事態の方法は不適切なものになっていった。
キクユの貧困層(彼らの多くはマウマウの支持者である)は、
そのような手段は金持ちや「忠臣」をより富ませるだけで
貧困者はより貧困になると考え、
長い間、その考えに抵抗してきた。
しかし、非常事態宣言による権限強化のおかげでスイナートンは
「これまでの政府の方法を取りやめ、
能力があり裕福なアフリカ人は更に土地が得られ、
貧困者はますます貧困になり、土地を持たない階級が発生する」
政策を実施することに成功した。
植民地政府は、キクユ人の中の社会経済構造が
土地所有により恒久的に2つの階層に分かれる政策を実施することにした。
将来には、土地所有の有無は、
「忠臣」とマウマウの間で線引きされるだろうと考えた。
いずれのワークキャンプにおいても強制労働が伴っていた。
植民地政府は拘留者の労働力を手中にはしていたが、
国際グループの監視を気にする必要があった。
この問題を避けるために、バーリングと植民地長官は
再びその解決を英国帝国内の前例に求めた。
そこで発見したのは、
マレーシアのテンプラー将軍はILOの条項に反しながらも、
2階層のワークキャンプを作ることで
その度合いを緩和させていたことだった。
テンプラーは、比較的協力的な拘留者を通常キャンプに収容し、
そこで彼を「自発的に」プロジェクト業務に従事させ、
適切な賃金を支払ったことにしていた。
非協力的な拘留者は特別キャンプに収容され、
彼らは労働を強いられるが賃金は支払われたことになっていた。
この仕組みの狡猾さは、
強制労働させられるものよりも
遥かに多くの自発的労働者がいると言う点だった。
テンプラーのシステムがケニアに輸出されてから、
強制労働に関するILOの委員会も国連の委員会も
英国植民地政府に条項違反を咎めることは無かった。
にも拘わらず、リッテルトンは植民地政府が条項違反していることを知っていた。
ケニアの防衛大臣は拘留者の労働に関して明確に次のように言っている。
「我々は奴隷商人であり、奴隷の雇い主は公共事業省である。」
スイナートンの4点計画が作成され、強制労働の実施も可能になり、
これで全体像が次第に明らかになってきた。
マウマウ被疑者を退去・移住させ、拘留することは、
植民地政府が農業再建を行い、土地改革を実行し、
ケニアを近代化する計画の中に将来に渡って組み入れられていった。
非常事態であろうが無かろうが、植民地改革は
膨大なマウマウ被疑者の労働によって行われていくことになった。
英軍と闘ったゲリラ・元マウマウ団兵士
- 2008/04/07(月) 10:54:58
英軍と闘ったゲリラ・元マウマウ団兵士より
ハーバード大学の歴史学者で、ケニアの自由闘争に関する著書
「英国のグーラーク(Britain’s Gulag)」でも知られるキャロリン・エルキンズ氏は、
英国軍は1950年代に10万人強のケニア人を殺害したと推測している。
その多くは、マウマウ団への支援阻止を目的に
キクユ族を収容するため建てられた強制収容所で死亡した。 
今回はアフリカのケニアから、
かつて同国の独立に貢献しながら旧宗主国(英国)の政治キャンペーンや
独立後の新政権の無関心から
歴史の闇に葬られた「マウマウ団」に対する
歴史的な再評価が行われつつある動きを紹介するIPS記事。
本件のように多くの事実が歴史に埋もれていった一方で、
戦後世界の世論形成に欧米先進国主導のメインストリームメディアが
果たしてきた役割を再考する必要がある。
デイビッド・ギシェル(74歳)は、1963年の独立前に、
中央ケニアの森林アジトから出て英植民地軍と戦った元ゲリラである。
彼は、英国との戦い、そして国を植民地主義から解放した
人々に対するその後のケニア政府の扱いにまつわる思い出に苦しめられている。
しかし、レジスタンス兵士、独立戦争生存者の功績を見直す動きが始まった。
ギシェル老人が言うところの「白人侵入者」に対する組織的抗戦は、1952年に開始された。
彼同様、ケニア最大の部族キクユ族出身の数百人の若者が、
植民地主義者を国から追放しようと誓い、マウマウ団を結成したのである。
ギシェル老人は思い出すかの様に、
「我々は林に隠れた。そして、英国および国防義勇軍(ケニア人の英国協力者)への攻撃を
開始する計画だった」と語った。
彼は、「我々にはナイフと斧しかなかった。
古いライフルを持っている者もいた。
多くが白人に撃たれた。私の体にはその時の弾が今も残っている。
恐ろしかったが、独立のために戦わなければならなかった」と語る。
アン・ワホメ(69歳)は、
反乱軍に食物を提供したとの容疑で国防義勇軍に逮捕され、強制収容所に入れられた。
元反乱軍の兵士であった彼女の夫は、ケニアの首都ナイロビで数年前に死亡した。
エルキンズ氏によると、マウマウ団を、
夜中に眠っている白人を殺害し婦女子を強姦する「野蛮人」とする
誹謗キャンペーンを開始したのは英国政府という。
しかし、記録によれば、ゲリラが殺害した白人は少数で、
入植者32名、植民地軍兵士50人という。
しかし、ギシェル老人は、
「マウマウ団が、英国に協力したキユクの仲間に残虐行為を行ったのは事実」と語っている。
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