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2008.04.19 (Sat)
「暁に祈る」という事件
平和祈念展示資料館 より転載
実名報道
昭和24年「暁に祈る」という事件が朝日新聞の報道により世間に登場した。
ウランバートル郊外にあった収容所で
戦犯追及を逃れるために偽名を使っていた元憲兵伍長が、
ソ連軍の管理将校に取り入り、隊長になって、
暴力支配体制を敷いて収容仲間を酷使したという。
さらに、作業能率の低い者や逃亡に失敗した者を
棒杭に裸のまましばりつけて終夜放置し、多数を凍死させたという。
明け方、頭を垂れて絶命している姿が祈っているようであり、
「暁に祈る」と呼んだというのだ。
「吉村」と自称していた「隊長」が長崎県に帰国していることが判明、
朝日新聞が「生きていた吉村隊長」と
実名で報じたことから大変な騒ぎとなった。
元隊員達は、殺された戦友達の弔いの行動に出た。
そして、国会が真相究明に乗り出す事態になった。
昭和26年、吉村隊長は国外犯として刑事責任を追及され、
元隊員達の証言などから有罪となり、懲役3年の刑が確定した。
吉村隊長の母親は朝日報道を苦に自殺していた。
虚報は歴史となった
現在この話は「吉村隊長事件」「暁に祈る事件」などとして多くの書物に載っている。
事件は事実だったと信じている人が多い。
ところが、これは朝日新聞の嘘報が招いた冤罪であった。
吉村氏は服役し出所後は行商などで生計を立てながら無罪を主張し続け、
それを受けて弁護士やジャーナリストなどが事件を再調査、
やはり無実であったとの報告が昭和63年にまとめられた。
しかし、再審請求をする間もなく翌年の平成元年、吉村氏は73歳でこの世を去った。
朝日の第一報は噂話をもとに創られたもので
当の吉村隊長には一切取材をしていない。
続報の途中、朝日側は嘘報に気付いていた。
しかし、朝日新聞は訂正するどころか
必死になって糊塗する動きにでた。
何が何でも吉村氏を「悪魔の極悪人」に仕立て上げ、
「吉村を裁け」という世論を高めるため、
朝日紙上で繰り広げられた弾劾キャンペーンは激烈を極めた。
吉村氏本人や、氏のため真実を語ろうとする人は、
朝日という強大なメディアによって犯罪人としての指弾を受けた。
反論を全く封じられた吉村氏は、為す術もなく服役させられたのだった。
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実名報道
昭和24年「暁に祈る」という事件が朝日新聞の報道により世間に登場した。
ウランバートル郊外にあった収容所で
戦犯追及を逃れるために偽名を使っていた元憲兵伍長が、
ソ連軍の管理将校に取り入り、隊長になって、
暴力支配体制を敷いて収容仲間を酷使したという。
さらに、作業能率の低い者や逃亡に失敗した者を
棒杭に裸のまましばりつけて終夜放置し、多数を凍死させたという。
明け方、頭を垂れて絶命している姿が祈っているようであり、
「暁に祈る」と呼んだというのだ。
「吉村」と自称していた「隊長」が長崎県に帰国していることが判明、
朝日新聞が「生きていた吉村隊長」と
実名で報じたことから大変な騒ぎとなった。
元隊員達は、殺された戦友達の弔いの行動に出た。
そして、国会が真相究明に乗り出す事態になった。
昭和26年、吉村隊長は国外犯として刑事責任を追及され、
元隊員達の証言などから有罪となり、懲役3年の刑が確定した。
吉村隊長の母親は朝日報道を苦に自殺していた。
虚報は歴史となった
現在この話は「吉村隊長事件」「暁に祈る事件」などとして多くの書物に載っている。
事件は事実だったと信じている人が多い。
ところが、これは朝日新聞の嘘報が招いた冤罪であった。
吉村氏は服役し出所後は行商などで生計を立てながら無罪を主張し続け、
それを受けて弁護士やジャーナリストなどが事件を再調査、
やはり無実であったとの報告が昭和63年にまとめられた。
しかし、再審請求をする間もなく翌年の平成元年、吉村氏は73歳でこの世を去った。
朝日の第一報は噂話をもとに創られたもので
当の吉村隊長には一切取材をしていない。
続報の途中、朝日側は嘘報に気付いていた。
しかし、朝日新聞は訂正するどころか
必死になって糊塗する動きにでた。
何が何でも吉村氏を「悪魔の極悪人」に仕立て上げ、
「吉村を裁け」という世論を高めるため、
朝日紙上で繰り広げられた弾劾キャンペーンは激烈を極めた。
吉村氏本人や、氏のため真実を語ろうとする人は、
朝日という強大なメディアによって犯罪人としての指弾を受けた。
反論を全く封じられた吉村氏は、為す術もなく服役させられたのだった。
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2008.04.19 (Sat)
「シベリア抑留」
平和祈念展示資料館 より転載

ラーゲリの模型
収容所四隅からはソ連兵の銃口が一日中監視していた。
ただ働きの囚人
ソ連側の連行・抑留は、戦争で破壊されたソ連経済を復興開発するための
労働力として日本人を利用するためであった。
それは奴隷となんら変わらない。
入ソした人たちは、極東、中央アジア、シベリア、
モスクワ以東のヨーロッパ・ロシアの2千余りの収容所に連行され、
鉄道敷設、炭鉱・鉱山労働、森林伐採、農漁業、都市建設などで酷使された。
その中でも鉄道建設や鉱山作業は、最も危険で過酷なものであった。
スターリンが最優先したバム鉄道建設には、
「枕木一本ごとに日本人一人の亡き骸が眠っている」
と言われるほど苛烈な突貫労働を強いられた。
加えて食料不足と非衛生的施設への収容という厳しい生活条件の中、
病死や事故死、自殺などで多くの死者が出た。
「働く動物」となりながら、ひたすらダモイ(帰国)を夢見て、今年こそは、
今年こそは帰れるかも知れない、と先の見えない強制労働を耐え抜いたのだった。
過酷なノルマ
過酷なノルマが割り当てられ、ノルマが達成できなかった者には
営倉にぶち込むなどの懲罰が待っていた。
しかもノルマは一定不変のものではなく、達成すれば必ず上昇する。
日本人はバカ正直に働き、自分たちでノルマ量を引き上げてしまったのであった。
ノルマ達成の出来不出来はすぐさま食事の増減にも反映された。
達成率の低い者の量を削り、優秀者の分に増やすという方法で、
ソ連側は簡単に労働の督励ができたのである。
▲1日の食事の再現◆

朝食・薄いスープと殻付き高粱のおにぎり、昼食・黒パン、夕食・薄いスープと雑穀。
もともと少ない分量、それも粟の薄いお粥か、
雑穀を混ぜ合わせて焼いた黒パン一片。
ときには馬の餌までが与えられた。

▲黒パンを秤で厳密に分配している
ノルマ達成如何では量を減らされる。
極寒のなかの重労働である、食い物がないと力が出ずノルマに達しない、
するとさらに食事を減らされるという悪循環。
食料の分配はまさしく命に直結していた。
最悪の環境・ラーゲリ
厳しい労働、貧しい食事に加えて、
「音さえ凍る」といわれる零下40度から60度の
恐しい寒さは日本人にはまさに地獄であった。
防寒具を着けていても手が凍え、足が凍え、身体が凍え、
居たたまれず地団駄を踏み、大の男が声をあげ本当に泣いたという。
涙も瞬時に凍ってゆく。
多くの人が凍傷に倒れた。
宿舎は掘っ建て式の丸太造りのバラックが主で、
収容者が自分たちで作らされたものが多かった。
床は板張りか土間、ベッドも丸太か板で一人が占める幅は50センチもない状態だった。
衣服や暖房設備も不十分で寒さのあまり一晩中立っていたこともあったという。
栄養不良のうえに下痢が追い打ちをかけ、
入浴もろくにしないので不潔な衣服に虱が全身を這い回る。
夏には南京虫が襲いかかった。
抑留中の死因は赤痢やチフスなどの伝染病、
栄養失調症といった病気がほとんどだが、
事故死、自殺、空腹で野草を食べての中毒死なども少なくなかった。
ただでさえ少ない抑留者の食料を収容所の職員が掠めていた。
抗議してその場で射殺された日本人もいた。
作業現場への行き帰りも監視のソ連兵にせかされ、
体力が落ちて遅れた人が射殺されたこともあった。
逃亡を図ったというのである。
威嚇射撃は茶飯事であった。
「笑った」という理由だけで監視兵に射殺された人もいる。

▲手製の靴下

▲ラーゲリ宿舎内部の再現

ラーゲリの模型
収容所四隅からはソ連兵の銃口が一日中監視していた。
ただ働きの囚人
ソ連側の連行・抑留は、戦争で破壊されたソ連経済を復興開発するための
労働力として日本人を利用するためであった。
それは奴隷となんら変わらない。
入ソした人たちは、極東、中央アジア、シベリア、
モスクワ以東のヨーロッパ・ロシアの2千余りの収容所に連行され、
鉄道敷設、炭鉱・鉱山労働、森林伐採、農漁業、都市建設などで酷使された。
その中でも鉄道建設や鉱山作業は、最も危険で過酷なものであった。
スターリンが最優先したバム鉄道建設には、
「枕木一本ごとに日本人一人の亡き骸が眠っている」
と言われるほど苛烈な突貫労働を強いられた。
加えて食料不足と非衛生的施設への収容という厳しい生活条件の中、
病死や事故死、自殺などで多くの死者が出た。
「働く動物」となりながら、ひたすらダモイ(帰国)を夢見て、今年こそは、
今年こそは帰れるかも知れない、と先の見えない強制労働を耐え抜いたのだった。
過酷なノルマ
過酷なノルマが割り当てられ、ノルマが達成できなかった者には
営倉にぶち込むなどの懲罰が待っていた。
しかもノルマは一定不変のものではなく、達成すれば必ず上昇する。
日本人はバカ正直に働き、自分たちでノルマ量を引き上げてしまったのであった。
ノルマ達成の出来不出来はすぐさま食事の増減にも反映された。
達成率の低い者の量を削り、優秀者の分に増やすという方法で、
ソ連側は簡単に労働の督励ができたのである。
▲1日の食事の再現◆

朝食・薄いスープと殻付き高粱のおにぎり、昼食・黒パン、夕食・薄いスープと雑穀。
もともと少ない分量、それも粟の薄いお粥か、
雑穀を混ぜ合わせて焼いた黒パン一片。
ときには馬の餌までが与えられた。

▲黒パンを秤で厳密に分配している
ノルマ達成如何では量を減らされる。
極寒のなかの重労働である、食い物がないと力が出ずノルマに達しない、
するとさらに食事を減らされるという悪循環。
食料の分配はまさしく命に直結していた。
最悪の環境・ラーゲリ
厳しい労働、貧しい食事に加えて、
「音さえ凍る」といわれる零下40度から60度の
恐しい寒さは日本人にはまさに地獄であった。
防寒具を着けていても手が凍え、足が凍え、身体が凍え、
居たたまれず地団駄を踏み、大の男が声をあげ本当に泣いたという。
涙も瞬時に凍ってゆく。
多くの人が凍傷に倒れた。
宿舎は掘っ建て式の丸太造りのバラックが主で、
収容者が自分たちで作らされたものが多かった。
床は板張りか土間、ベッドも丸太か板で一人が占める幅は50センチもない状態だった。
衣服や暖房設備も不十分で寒さのあまり一晩中立っていたこともあったという。
栄養不良のうえに下痢が追い打ちをかけ、
入浴もろくにしないので不潔な衣服に虱が全身を這い回る。
夏には南京虫が襲いかかった。
抑留中の死因は赤痢やチフスなどの伝染病、
栄養失調症といった病気がほとんどだが、
事故死、自殺、空腹で野草を食べての中毒死なども少なくなかった。
ただでさえ少ない抑留者の食料を収容所の職員が掠めていた。
抗議してその場で射殺された日本人もいた。
作業現場への行き帰りも監視のソ連兵にせかされ、
体力が落ちて遅れた人が射殺されたこともあった。
逃亡を図ったというのである。
威嚇射撃は茶飯事であった。
「笑った」という理由だけで監視兵に射殺された人もいる。

▲手製の靴下

▲ラーゲリ宿舎内部の再現
2008.04.19 (Sat)
シベリア抑留(シベリア捕虜収容所)

ラーゲリの再現
シベリア抑留(シベリア捕虜収容所) より転載
さて、ソ連に抑留された日本人の数は約60万人と推定されており、
その大部分の人が何年にもわたる強制労働を強いられたのである。
ソ連軍は日本兵を約1千人を単位とする”作業大隊”(569個)に編成し直した。
その際に従来の部隊に関係なく、
各種の部隊を混在(数個〜十数個)させた。
適当に団結力のない管理しやすい集団を作ろうとしたのであろうか。
作業大隊の指揮には、
下級将校(大佐、中佐クラス)それも最小限の人数のみを残し、
他の大部分の将校は、下士官、兵(作業大隊)と分離して
”将校大隊”に編入された。
こうして旧日本軍の組織は完全に破壊された。
日本兵は、シベリア(47万2千人)をはじめ
外蒙古、中央アジア、ヨーロッパ・ロシアなどの捕虜収容所等に分散収容された。
そして、大部分の日本兵(将校大隊を除く)は、
それぞれの地域にある一般強制労働収容所(ラーゲリ)で
強制労働をさせられることになったのである。
”音さえ凍る”といわれる極寒の地シベリアの自然環境は厳しい。
その中で、捕虜たちはおもに屋外での重労働に従事した。
過酷な”ノルマ”(達成目標)に対して与えられる食料はとぼしかった。
収容所内で日本人指導者の地位に就いたのは、
いくつかの権力闘争の末(昭和23年春頃)、最終的には多くの場合、
日本での教育年数の少ない25歳以下の下級兵士であった。
彼らは作業大隊の指揮権を下級将校から奪い取ることによって
思いもかけない”権力の座”についた。
そして”アクチーブ”(積極分子)としての特権をほしいままにしたのである。
特権の第一は、なんといっても過酷な労働から解放されることである。
さらに炊事場を監督下におくことによって食物の心配をする必要がなくなる。
こうなればシベリアの極寒もあまり気にはならないだろう。
しかしその彼らを任命するのはソ連当局である。
意に沿わない行為をすればたちまちにしてその立場を追われることになる。
アクチーブになるために、そしてなってからも積極的な”学習”と”活動”が求められた。
ソ連当局にとって民主運動のねらいは、
1)日本人捕虜に共産主義の考え方を叩き込むこと、
2)前職者の告発、
3)捕虜を労働にかりたてること、にあったと思われる。
ここで前職者とは、参謀、特に情報参謀、特務機関、憲兵隊、警察などの職を
一度でも経験した者のことをいうそうである。
”反動”すなわち軍国主義、ファシズム思想をもつ者という意味であろうか。
さて、アクチーブの活動はこれらソ連当局の意向にそったものとなるのは当然である。
収容所内での民主運動学集会を開催して講師を務める。
その成果によって、より上位の学校で学ぶ機会を得る。
などといった実践が続いた。
アクチーブが中心になって反動を批判攻撃するために、
しばしば激しい”吊し上げ”が全員参加で行われた。
ここで反動とは、前職者、軍国主義者に限らず、
共産主義ソ連の反対者全般と言うことになるが、
反動がほとんどいなくなった後では、
アクチーブ自身の地位安泰のために、ささいな言いがかりをつけて
反動を無理やり作り出すといった状況が見られた。
反動は永久に帰国させない、というおどしをかけられ、
事実帰国を遅らされる者が相次いだ。
こうして多くの者は、次々と自己批判をして
”ダモイ(帰国)用民主主義者”となっていった。
反動から民主主義者へ転向した証しを示すには積極的な活動をする必要があった。
まだ残る反動を吊し上げて罵詈雑言を浴びせること、
あるいは前職者の密告、そしてでっち上げまで行われた。
多くの抑留者(短期抑留者)が帰国した後には、
こうした”前職者”が”受刑者”として取り残された。
彼らはソ連国内法で裁かれ、20年、30年という異常に長い刑期を言い渡された。
そして、 日本人同士の受刑者は互いに切り離されて、
ソ連人やその他外国人受刑者の中に、多くの場合たった一人で放り出された。
しかも捕虜という身分を失ない、ただ単なる外国人犯罪者として
日本国内での関心の対象からもはずされていったのだった。
様々な交渉の末、なんとかシベリア長期抑留者の引揚げが
一応完了したのは1956年(昭和31年)12月26日である。
その総数2689人、帰国船が入港するたびに、
そこには今日も待ちつづける”岸壁の母”がいた。
シベリア抑留の本当の意義は、極限におかれた
日本人のモデルを示したことにある、といえるだろう。
大多数の日本兵(将校も含めて)は、
ソ連当局の過酷な要求を前に団結して戦うことは決してなかった。
逆に洗脳されて民主化運動という熱病に侵されてしまった。
ヨーロッパ諸国(ドイツ、イタリアなど)の捕虜にはみられない行動パターンである。
将校の中で彼らの部下である兵士の待遇改善に尽くしたものはほとんどいない。
それは、作業大隊から切り離された上級将校および
作業大隊を直接指揮する立場にあった下級将校ともに同じである。
将校たちは、民主化運動の高まりの中で
なすすべもなく権力の座を下級兵士に明渡してしまった。
そして一部兵士の中では、自分の欲得のみを考え、
帰国のためには友を売り渡すような裏切り、背信行為が 行われた。
ソ連抑留者総数60万人から短長期抑留帰国者数を差し引くと、
死亡・行方不明者約6万9千人(全体の1割強)となる。
対ソ戦の戦死者は2万7千名と推定されており、
戦闘が終了した後に、戦時に倍する以上の人がむなしく死んでいった計算になる。
また、無事帰国できた人々も肉体的・精神的に大なり小なりのダメージを受けていた。
なお、短期抑留者の帰国直後の時期に、
民間人約3000人が樺太に抑留(主として経済犯として)されていたという。
関東軍を中心とする将兵だけでなく
抑留の対象となった一般民間人がいたのである。

▲両袖のない防寒外套。
あまりの空腹に耐えかね、片袖ずつロシア人労働者の持っていたパンと取り換えた。
当時は一般ソ連人も極貧の極みだった。
2008.04.17 (Thu)
ソ連における弾圧体制の犠牲者 3
3、流刑の犠牲者
第三分類の犠牲者は流刑の死者である。
1930〜53年に約600万人が単なる行政措置によって、
単身あるいは家族とともに、
シベリア、カザフスタン、北極圏、極東、ウラルの
荒々しい地方に強制移送された。
スターリン時代の最初の大量移送は1930年2月に、
農村における「非富農化」で始まった。
2年間に180万人以上の「富農」が列車によって運ばれ、大抵はタイガに放置された。
受入れ担当の地方当局は、多くの場合に過大な業務が割当てられた。
この「移送‖放置」の過程でどれほどの人が死亡したか?
その算出は困難である。
ある人々は3〜4ヶ月にわたる移送の過程で逃亡に成功した。
しかし20〜30万人、その多くは家族の伴った子供たちが1930〜31年に死亡した。
1932年には移送者中死者約9万人(死亡率6.8%)を政治警察が算出した。
1933年は死者15万1000人以上(死亡率13.3%)である。
1930年代の死亡者数は60〜70万人である。
1935〜36年からは民族ごとの大規模な強制移送が始まった.
初年は国境地帯に住む少数グループで、
レニングラード地区のフィンランド人、
ウクライナ西部国境地区のポーランド人、ドイツ人、
ウラジオストック地方の朝鮮人である。
1940年代は領土拡張と戦争と西方(バルト諸国、西ウクライナ、モルダビア)が占領、
あるいは再占領された時期である。
約320万人が強制移送され、
その殆どは階級所属ではなく人種に基づいており、
これは「非富農化」の時に行われたものと異なっている。
今日、移送された人の数は分かっていても、
死亡者数を正確に出すのは困難である。
家畜用貨車による数千キロの移送過程における死亡、
カザフスタン、シベリア、極北、中央アジアにおける
不安定な「定住」の最初の数年における死亡などの詳細は把握し難い。
現在のところ提出できる見積りは、
1930〜53年の強制移送者全体における超過死亡率に当るものは約150万人である。
4、飢饉の犠牲者
これは犠牲者のかけ離れて多い分類である。
ソ連におきた三つの飢饉の死亡者、
これらはヨーロッパの最後の大飢饉であるが、
1921〜22年に死者500万人、
1932〜33年に死者600万人、
1946〜47年に死者50万人である。
これらの悲劇的事件に体制が重大な責任を負っていることは動かし難い。
1932〜33年と1946〜47年の飢饉については、
完全に不問にふされているが、政府の責任は決定的である。
最初の飢饉(1921〜22年)には二重の状況がある。
第一に、前例のない人口の変化であり、
1914年8月から1922年夏まで、
1500万人が第一次世界大戦、一九一七年革命、四年間の内戦にまきこまれ、
個人的、集団的にかつてない大量虐殺、チフスとコレラの洗礼を受けた。
第二に、生れたばかりの体制と広範な農民層の対立である。
ボリシェヴィキ指導部は
「陰気で」「アジア的な」農村大衆に深い憎しみを感じた。
彼らは近代化と社会主義に心底から非協力であると思われた。
農民の要求する交換の自由を拒否し、暴力による徴発を行い、
ボリシェヴィキは農村と対立関係を作った。
1920年には白軍が敗退した。
農民は旧体制に帰る以外の展望をもたない白軍を支持しなかったが、
今度はボリシェヴィキも耐えられぬ重荷になった。
1921〜22年に、戦争で荒廃した土地のわずかな収穫物に対して
農産物の徴発は1918年の水準の3倍に達した。
そこに干ばつが到来する。
それは1921年ボルガ盆地の場合がそうだ。
わずかな蓄えは、当時政府報告に使われた用語によれば、
「徴発の乱行」によって、系統的に横奪され、飢饉は爆発的に広がった。
1932〜33年の飢饉で体制の責任は明確だ。
1929年末に、権力をもつスターリン・グループは
農村における強制的集団化を開始した。
「社会主義建設」のスローガンはネップで行われていた
市場の仕組みを破壊し、形ばかりの価格で、
コルホーズ(集団農場)とソホーズ(国営農場)の農産物を取り上げ、
国の工業化を賄うことを国に許すことを目的にする。
1920年代に農民は市場価格で、収穫物の15%を売却していた。
1930年から国の徴発は農産物の27%に達する。
1933年にそれは33%になり、
ウクライナと北コーカサスの小麦大生産地では収穫物の50%近くに達する。
飢えた農民の大量流出が都市に向うのを防ぐため、
鉄道の切符販売が停止され、
スターリンによれば「ソヴェト権力に生死の戦いをいどむ」
農民の離村を阻むため軍の一部が展開される。
1932〜33年の飢饉にいたる過程でスターリン指導部は、
1932年夏の初めに何度もその危機と飢饉の現実を警告されており、
その責任は明白であり決定的である。
飢饉のピークは33年1月から7月までだったが、
32年夏と33年夏、ソヴェト政府は170万トンの穀物を輸出し、
起こるかもしれない戦争用のストックとして
国の備蓄は300万トンを超えていた。
これは数百万人を飢餓から救うに不足しない量である。
最後の大飢饉は1946〜47年であり、
これも政府によって否定され、いまなお否認されている。
これは1921〜22年の飢饉の状況を思わせるい
くつかの特徴をもつと同時に本質的には32〜33年の要因も兼ねている。
戦後におけるこの飢饉は、
1941〜45年の2600万人の死者という人口減少を締めくくるものであり、
戦争中における経済基盤の大規模な破壊の後に、
慢性的栄養不良と疫病を背景に発生している。
1946年の収穫は破局的で45年を20%、32年を40%下回る。
しかし当局は国家への強制的引き渡し部分の引下げを拒否し、
一方でスターリンは都市における配給の終わりを発表した。
政府は新戦争にそなえた穀物備蓄に手をつけるのを拒否し、
これは約一千万トンに達していた。
こうして46〜47年に50万人以上が餓死し、
それは主としてクールスク、ヴォロネジ、タンボフ、モルダヴィア地方で発生している。
二〇世紀にヨーロッパの一国で1150万人が餓死している。
この恐ろしい後退は何なのか。
近代化と進歩の担い手を標榜した
ソヴェトの経験の特殊性と性質について歴史家である私は問いかけられる。
一世代約30年の間に300万人が
キャンプあるいは強制移送によって早死にしている。
100万人が茶番の裁判あるいは単なる「行政措置」で殺されている。
以上がソヴェト弾圧体制の最盛期における犠牲者の暫定的な総括である。
いつでもそうなんだ。
食べ物があるんだ。
それでも飢えに苦しむ。
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第三分類の犠牲者は流刑の死者である。
1930〜53年に約600万人が単なる行政措置によって、
単身あるいは家族とともに、
シベリア、カザフスタン、北極圏、極東、ウラルの
荒々しい地方に強制移送された。
スターリン時代の最初の大量移送は1930年2月に、
農村における「非富農化」で始まった。
2年間に180万人以上の「富農」が列車によって運ばれ、大抵はタイガに放置された。
受入れ担当の地方当局は、多くの場合に過大な業務が割当てられた。
この「移送‖放置」の過程でどれほどの人が死亡したか?
その算出は困難である。
ある人々は3〜4ヶ月にわたる移送の過程で逃亡に成功した。
しかし20〜30万人、その多くは家族の伴った子供たちが1930〜31年に死亡した。
1932年には移送者中死者約9万人(死亡率6.8%)を政治警察が算出した。
1933年は死者15万1000人以上(死亡率13.3%)である。
1930年代の死亡者数は60〜70万人である。
1935〜36年からは民族ごとの大規模な強制移送が始まった.
初年は国境地帯に住む少数グループで、
レニングラード地区のフィンランド人、
ウクライナ西部国境地区のポーランド人、ドイツ人、
ウラジオストック地方の朝鮮人である。
1940年代は領土拡張と戦争と西方(バルト諸国、西ウクライナ、モルダビア)が占領、
あるいは再占領された時期である。
約320万人が強制移送され、
その殆どは階級所属ではなく人種に基づいており、
これは「非富農化」の時に行われたものと異なっている。
今日、移送された人の数は分かっていても、
死亡者数を正確に出すのは困難である。
家畜用貨車による数千キロの移送過程における死亡、
カザフスタン、シベリア、極北、中央アジアにおける
不安定な「定住」の最初の数年における死亡などの詳細は把握し難い。
現在のところ提出できる見積りは、
1930〜53年の強制移送者全体における超過死亡率に当るものは約150万人である。
4、飢饉の犠牲者
これは犠牲者のかけ離れて多い分類である。
ソ連におきた三つの飢饉の死亡者、
これらはヨーロッパの最後の大飢饉であるが、
1921〜22年に死者500万人、
1932〜33年に死者600万人、
1946〜47年に死者50万人である。
これらの悲劇的事件に体制が重大な責任を負っていることは動かし難い。
1932〜33年と1946〜47年の飢饉については、
完全に不問にふされているが、政府の責任は決定的である。
最初の飢饉(1921〜22年)には二重の状況がある。
第一に、前例のない人口の変化であり、
1914年8月から1922年夏まで、
1500万人が第一次世界大戦、一九一七年革命、四年間の内戦にまきこまれ、
個人的、集団的にかつてない大量虐殺、チフスとコレラの洗礼を受けた。
第二に、生れたばかりの体制と広範な農民層の対立である。
ボリシェヴィキ指導部は
「陰気で」「アジア的な」農村大衆に深い憎しみを感じた。
彼らは近代化と社会主義に心底から非協力であると思われた。
農民の要求する交換の自由を拒否し、暴力による徴発を行い、
ボリシェヴィキは農村と対立関係を作った。
1920年には白軍が敗退した。
農民は旧体制に帰る以外の展望をもたない白軍を支持しなかったが、
今度はボリシェヴィキも耐えられぬ重荷になった。
1921〜22年に、戦争で荒廃した土地のわずかな収穫物に対して
農産物の徴発は1918年の水準の3倍に達した。
そこに干ばつが到来する。
それは1921年ボルガ盆地の場合がそうだ。
わずかな蓄えは、当時政府報告に使われた用語によれば、
「徴発の乱行」によって、系統的に横奪され、飢饉は爆発的に広がった。
1932〜33年の飢饉で体制の責任は明確だ。
1929年末に、権力をもつスターリン・グループは
農村における強制的集団化を開始した。
「社会主義建設」のスローガンはネップで行われていた
市場の仕組みを破壊し、形ばかりの価格で、
コルホーズ(集団農場)とソホーズ(国営農場)の農産物を取り上げ、
国の工業化を賄うことを国に許すことを目的にする。
1920年代に農民は市場価格で、収穫物の15%を売却していた。
1930年から国の徴発は農産物の27%に達する。
1933年にそれは33%になり、
ウクライナと北コーカサスの小麦大生産地では収穫物の50%近くに達する。
飢えた農民の大量流出が都市に向うのを防ぐため、
鉄道の切符販売が停止され、
スターリンによれば「ソヴェト権力に生死の戦いをいどむ」
農民の離村を阻むため軍の一部が展開される。
1932〜33年の飢饉にいたる過程でスターリン指導部は、
1932年夏の初めに何度もその危機と飢饉の現実を警告されており、
その責任は明白であり決定的である。
飢饉のピークは33年1月から7月までだったが、
32年夏と33年夏、ソヴェト政府は170万トンの穀物を輸出し、
起こるかもしれない戦争用のストックとして
国の備蓄は300万トンを超えていた。
これは数百万人を飢餓から救うに不足しない量である。
最後の大飢饉は1946〜47年であり、
これも政府によって否定され、いまなお否認されている。
これは1921〜22年の飢饉の状況を思わせるい
くつかの特徴をもつと同時に本質的には32〜33年の要因も兼ねている。
戦後におけるこの飢饉は、
1941〜45年の2600万人の死者という人口減少を締めくくるものであり、
戦争中における経済基盤の大規模な破壊の後に、
慢性的栄養不良と疫病を背景に発生している。
1946年の収穫は破局的で45年を20%、32年を40%下回る。
しかし当局は国家への強制的引き渡し部分の引下げを拒否し、
一方でスターリンは都市における配給の終わりを発表した。
政府は新戦争にそなえた穀物備蓄に手をつけるのを拒否し、
これは約一千万トンに達していた。
こうして46〜47年に50万人以上が餓死し、
それは主としてクールスク、ヴォロネジ、タンボフ、モルダヴィア地方で発生している。
二〇世紀にヨーロッパの一国で1150万人が餓死している。
この恐ろしい後退は何なのか。
近代化と進歩の担い手を標榜した
ソヴェトの経験の特殊性と性質について歴史家である私は問いかけられる。
一世代約30年の間に300万人が
キャンプあるいは強制移送によって早死にしている。
100万人が茶番の裁判あるいは単なる「行政措置」で殺されている。
以上がソヴェト弾圧体制の最盛期における犠牲者の暫定的な総括である。
いつでもそうなんだ。
食べ物があるんだ。
それでも飢えに苦しむ。
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2008.04.17 (Thu)
ソ連における弾圧体制の犠牲者 2
ソ連における弾圧体制の犠牲者 より転載
原題「流刑、強制収容所、飢饉…ソ連あるいはテロルの支配」
1、政治的処刑の犠牲者
体制の直接的犠牲者の第一分類には、政治警察にかかわる、
「反革命」にかかわる事件で死刑を宣告され処刑された人が含まれる。
政治警察関係では406万人が有罪となり、うち80万人近くが死刑を宣告され処刑された。
死刑宣告の85%は1937〜38年に行われた。
すなわち「大粛清」を通じて68万人以上が処刑され、
それは政治局つまりスターリンによって、
地方ごとに決められた「処刑割当」によって主として行われた。
別表のなかで1940年に2万5700人の
ポーランド人士官、官吏、警察その他「階級の敵」が
内務人民委員ベリアの40年3月5日付け極秘命令で
処刑されたことが明らかに脱落している。
「脱落」の理由は、その事件の一つが「カチン事件」
(ポーランド士官約4500人が殺された場所)
の名で知られるこの全事件が非常に反応を招きやすいため、
「特別の扱い」がされたためではないか。
大粛清中、地方の行き過ぎが惨事を広げたとの説があるが、
地方の要請に基づいて多くは政治局が認可している。
1921〜53年の犠牲者は今日算出できるのは約80万人であるが、
実際には約100万人であろう。
2、強制収容所の犠牲者
ソヴェト弾圧体制犠牲者の第二分類は労働キャンプでの死者である。
1968年に英国の歴史家であり戦時通信員だったアレキサンダー・ヴェルスが
50年代の初めの強制収容所抑留者数を1000〜1200万人、
さらには1500万人と挙げた数字は、
18歳から60歳までの成人男子総数が
当時3500万人をわずかに超えていたことを考えれば疑わしい。
最近のデータでは、最も多かった50年代初めで250万人である。
このうち「反革命活動」で有罪とされた人は約四分の一、
後は軽犯罪への不釣り合いな刑で抑留されているものが大部分だ。
例えば「社会的所有」の窃盗に関する法律では、
コルホーズの畑で小麦の穂を幾つかとっただけで、
5年から10年のキャンプに回すことができる。
強制収容所での死亡者数について現在入手できる資料によれば、
1931〜53年に5年以上受刑者が送られた
大総合強制収容所の850万人中88万1000人が死亡している。
比較的軽罪の受刑者が送られた労働開拓地の650万人中では、
資料がそろわないため、40〜50万人が死亡したと見られる。
こうして強制収容所における死亡者総計は150万人足らずである。
キャンプにおける死亡率は時代によって著しく異なる。
最も恐ろしいのは1933年で、死亡率は20%に上っている。
これは大飢饉と大強制収容所の混乱に基づくもので、
管理の不行き届きで収容者の五分の一が飢えと疫病で死亡した。
1938年には9%が死亡したが、これは「大粛清」の犠牲者が送られ
キャンプが過密になったためである。
1942には20.7%、43年には20.3%に達したが、
これは収容者が補給のないキャンプに放置されたためだ。
この2年で40万人が死亡しているこの時期、
100万人以上の囚人が釈放され赤軍に投じられて初戦の軍事的損失を補った。
以上の不揃いの死亡率は
強制収容所囚人に対する体制の態度を明確に反映している。
すなわち無関心、犯罪的怠慢、成行きまかせ、破廉恥である。
原題「流刑、強制収容所、飢饉…ソ連あるいはテロルの支配」
1、政治的処刑の犠牲者
体制の直接的犠牲者の第一分類には、政治警察にかかわる、
「反革命」にかかわる事件で死刑を宣告され処刑された人が含まれる。
政治警察関係では406万人が有罪となり、うち80万人近くが死刑を宣告され処刑された。
死刑宣告の85%は1937〜38年に行われた。
すなわち「大粛清」を通じて68万人以上が処刑され、
それは政治局つまりスターリンによって、
地方ごとに決められた「処刑割当」によって主として行われた。
別表のなかで1940年に2万5700人の
ポーランド人士官、官吏、警察その他「階級の敵」が
内務人民委員ベリアの40年3月5日付け極秘命令で
処刑されたことが明らかに脱落している。
「脱落」の理由は、その事件の一つが「カチン事件」
(ポーランド士官約4500人が殺された場所)
の名で知られるこの全事件が非常に反応を招きやすいため、
「特別の扱い」がされたためではないか。
大粛清中、地方の行き過ぎが惨事を広げたとの説があるが、
地方の要請に基づいて多くは政治局が認可している。
1921〜53年の犠牲者は今日算出できるのは約80万人であるが、
実際には約100万人であろう。
2、強制収容所の犠牲者
ソヴェト弾圧体制犠牲者の第二分類は労働キャンプでの死者である。
1968年に英国の歴史家であり戦時通信員だったアレキサンダー・ヴェルスが
50年代の初めの強制収容所抑留者数を1000〜1200万人、
さらには1500万人と挙げた数字は、
18歳から60歳までの成人男子総数が
当時3500万人をわずかに超えていたことを考えれば疑わしい。
最近のデータでは、最も多かった50年代初めで250万人である。
このうち「反革命活動」で有罪とされた人は約四分の一、
後は軽犯罪への不釣り合いな刑で抑留されているものが大部分だ。
例えば「社会的所有」の窃盗に関する法律では、
コルホーズの畑で小麦の穂を幾つかとっただけで、
5年から10年のキャンプに回すことができる。
強制収容所での死亡者数について現在入手できる資料によれば、
1931〜53年に5年以上受刑者が送られた
大総合強制収容所の850万人中88万1000人が死亡している。
比較的軽罪の受刑者が送られた労働開拓地の650万人中では、
資料がそろわないため、40〜50万人が死亡したと見られる。
こうして強制収容所における死亡者総計は150万人足らずである。
キャンプにおける死亡率は時代によって著しく異なる。
最も恐ろしいのは1933年で、死亡率は20%に上っている。
これは大飢饉と大強制収容所の混乱に基づくもので、
管理の不行き届きで収容者の五分の一が飢えと疫病で死亡した。
1938年には9%が死亡したが、これは「大粛清」の犠牲者が送られ
キャンプが過密になったためである。
1942には20.7%、43年には20.3%に達したが、
これは収容者が補給のないキャンプに放置されたためだ。
この2年で40万人が死亡しているこの時期、
100万人以上の囚人が釈放され赤軍に投じられて初戦の軍事的損失を補った。
以上の不揃いの死亡率は
強制収容所囚人に対する体制の態度を明確に反映している。
すなわち無関心、犯罪的怠慢、成行きまかせ、破廉恥である。
2008.04.17 (Thu)
ソ連における弾圧体制の犠牲者 1
ソ連における弾圧体制の犠牲者
原題「流刑、強制収容所、飢饉…ソ連あるいはテロルの支配」
強制収用所で2000万人が死んだと言う説でも
多すぎるのではないかと思っていた。
4000,5000万人はひどすぎる。
あるサイトでは次のような数字を出しているが、
このぐらいなものであろう。
ソ連の強制収用所は、
「死の強制収用所」でなく、労働キャンプであったことになる。
1、政治的処刑の犠牲者
1921〜53年の犠牲者は約100万人であろう。
2、強制収容所(労働キャンプ)の犠牲者
死亡者総計は150万人足らず。
3、流刑の犠牲者
「富農」と人種に基づいて選別された。
単身あるいは家族とともに、1930〜53年の強制移送者のうち約150万人。
一世代約30年の間に300万人が
キャンプあるいは強制移送によって早死にしている。
100万人が茶番の裁判あるいは単なる「行政措置」で殺されている。
4、飢饉の犠牲者
これは犠牲者のかけ離れて多い分類である。
1921〜22年に死者500万人、
1932〜33年に死者600万人、
1946〜47年に死者50万人である。
一国で1150万人が餓死している。
1941〜45年の2600万人の死者という人口減少があった。
原題「流刑、強制収容所、飢饉…ソ連あるいはテロルの支配」
強制収用所で2000万人が死んだと言う説でも
多すぎるのではないかと思っていた。
4000,5000万人はひどすぎる。
あるサイトでは次のような数字を出しているが、
このぐらいなものであろう。
ソ連の強制収用所は、
「死の強制収用所」でなく、労働キャンプであったことになる。
1、政治的処刑の犠牲者
1921〜53年の犠牲者は約100万人であろう。
2、強制収容所(労働キャンプ)の犠牲者
死亡者総計は150万人足らず。
3、流刑の犠牲者
「富農」と人種に基づいて選別された。
単身あるいは家族とともに、1930〜53年の強制移送者のうち約150万人。
一世代約30年の間に300万人が
キャンプあるいは強制移送によって早死にしている。
100万人が茶番の裁判あるいは単なる「行政措置」で殺されている。
4、飢饉の犠牲者
これは犠牲者のかけ離れて多い分類である。
1921〜22年に死者500万人、
1932〜33年に死者600万人、
1946〜47年に死者50万人である。
一国で1150万人が餓死している。
1941〜45年の2600万人の死者という人口減少があった。
2008.04.16 (Wed)
ソ連のスターリン時代の強制収容所

労働キャンプで4000万人が死んだ。
スターリンの労働キャンプはホロコーストを上回る史上最大の死の強制収用所である。
ソ連のスターリン時代の強制収容所
(リンク先に写真がいろいろありますよ)
これはソビエト時代の強制労働収容所の写真で、
現在はもう既に人っ子一人いなく朽ち果てています。
スターリン時代のモノらしいので、第二次世界大戦前のモノです。
ここではあのホロコーストをも上回る5000万人もの人が亡くなったって書いてあるんですが、
その数字の真偽に関してはエルエルもワカラン。
(いくら何でも多すぎないか?っと正直思う。
ホロコーストでは約1000万人くらいの人が殺されたとされています)
現在はこの場所には全ての道路がつながっていない状態で、
上空からヘリコプターで行くしかない状況で
スターリンが死んだ1953年にこの場所は放置されたそうです。
スターリンの死と同時に恩赦が言い渡されて、
囚人と番人の全ての人が速やかにこの場所を捨てたそうです。
「enemies of the state」(つまり「ソビエト連邦の敵」
と呼ばれた政治犯が収容されたもので、
人々は木製の宿舎に入れられほとんど食料も与えられず
劣悪な環境下で働かされ死んだそうです。
歴史家によると、この収容所は
1932年に始まり1937年頃にはピークを迎え、
1941年になると一端収容される人が減ったそうです。
第二次世界大戦が始まったからです。
囚人は「この強制収容所に入るか?
それとも戦争に行くか?」ってのを選ぶことが出来たそうです。
そして1945年になって戦争が終わると再び数百万もの人が収容所に戻されたんだとか。

リンク先に「橋」の写真がありますが、
その橋も囚人の人達によって作られたそうですが、
完成の前にスターリンが死んだので
とうとう一度も使われることはなかったそうです。
また、イガルガとサレチャードと言う町を結ぶ
900kmもの道路を1949年から1953年にかけて作ったそうなんですが、
その工事の間に30万人もの人が亡くなったそうです。
尚、現在はその道路はどこにもつながっていない
まさに死の道となってしまっているらしい。
ソビエト連邦がレーニンによって誕生したのが1922年で、
そのわずか2年後の1924年にレーニンは死去して後釜にスターリンがつきます。
スターリンはこの強制収容所を見てもわかるように
反対派を片っ端から殺して独裁体制を築きました。
この強制収容所もその一端であろうと思います。
Wikipedia:ソビエト連邦には1200万人が粛正されたって書いてありますけど、
正確な数字はエルエルにもてんでわからん。
「エルエル」さんより
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2008.03.30 (Sun)
FEMAの「死の強制収用所」
2008.03.30 (Sun)
Texe Marrs Gulag USA
Texe Marrs Gulag USA Concentration Camps In America
Texe Marrs の強制収用所の歴史のビデオです。
英語です。
時間は長いけれど、内容はおそまつです。
このビデオを見てから、FEMAの強制収用所について疑問を持ち始めました。
ナチスの強制収用所は取り扱っています。
ソ連の収容所も。
アメリカの日系人の収容所も。
しかし、肝心の最初の強制収用所であるボーア人のが抜けているのです。
これでもかこれでもかと、ささいなことを取り上げます。
強制収用所と何の関係があるのか、首をかしげるようなものも混ざっています。
資料の山をそばに置いて
いかにもすべて調べつくしたという感じで演説します。
南北戦争時の強制収用所も抜けています。
いったいTexe Marrs は何のためにこのビデオを作ったのか?
FEMAの強制収用所の宣伝ではないのか。
つまり、大衆に強制収用所の存在を広めて、恐怖心を煽るのが目的ではないのか、
と考えた次第です。
Texe Marrs の強制収用所の歴史のビデオです。
英語です。
時間は長いけれど、内容はおそまつです。
このビデオを見てから、FEMAの強制収用所について疑問を持ち始めました。
ナチスの強制収用所は取り扱っています。
ソ連の収容所も。
アメリカの日系人の収容所も。
しかし、肝心の最初の強制収用所であるボーア人のが抜けているのです。
これでもかこれでもかと、ささいなことを取り上げます。
強制収用所と何の関係があるのか、首をかしげるようなものも混ざっています。
資料の山をそばに置いて
いかにもすべて調べつくしたという感じで演説します。
南北戦争時の強制収用所も抜けています。
いったいTexe Marrs は何のためにこのビデオを作ったのか?
FEMAの強制収用所の宣伝ではないのか。
つまり、大衆に強制収用所の存在を広めて、恐怖心を煽るのが目的ではないのか、
と考えた次第です。
2008.03.29 (Sat)
Prisoner in America


1109万4000人のドイツ兵が捕虜になりました。
380万人がアメリカ軍の捕虜で、
そのうち36万3036人が米国で収容されました。
アメリカ本土は戦争に巻き込まれなかったので
捕虜の待遇はよかった。
ホロコーストが宣伝されると
捕虜に対する待遇は悪くなった。


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2008.03.29 (Sat)
ドイツ人捕虜、ベルギーで鉱山労働




経済を再建するためにベルギーは労働者を必要としていた。
特に鉱山労働者を。
それでドイツ人捕虜をその仕事に使おうと考えた。
ベルギーには捕虜はいなかった。
それでベルギー政府はイギリスに頼んだ。
イギリスは承知して1945年11月までに
1万6000人のドイツ人鉱山労働者を移送した。
ベルギーの鉱山で捕虜はかなり良い働きをしたので、
ベルギー政府は、さらに労働者を求めるようになった。
アメリカに頼んで3万人を送ってもらった。
将校、戦争犯罪人、女性、50歳以上の男性、
労働に適さない男性は送られなかった。
イタリア、米国、西ヨーロッパの国々から移送された。
1945年9月の末にこの3万人のベルギーへの移送は完了した。
しかし1万1千人が鉱山作業には向いていなかった。
それで1万5千人をイギリスに頼んだ。
今度もイギリスは同意した。
1945年11月にベルギーにいる捕虜の数は6万4021人になった。
5万2150人が鉱山、1617人が林業に従事した。
ベルギー国内で収容されていたドイツ人捕虜は450人が死んだ。
労働キャンプでは収容するための施設が必要です。
死のキャンプでは必要ではありません。
アウシュビッツには収容するために木造の小屋がありました。

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2008.03.29 (Sat)
アイゼンハワーの死の収容所にて 4
ドイツ市民の間にも飢餓が広がり始めた。
何か食べれるものをさがすために
ゴミ箱をあさるドイツの女性を見かけるのが
普通のことになった。
追い払われることがなければ。
町長や村長にインタビューしたとき、
彼らの食料のたくわえは、
強制退去させられた人々(ドイツ国内で働いていた外国人)が
トラックで持ち去ったと言われた。
このことを報告すると、肩をすくめて無視された。
赤十字は収容所で見たことがなかった。
また市民を援助しているところも見たことがなかった。
次の収穫まで、隠しておいたたくわえをみなで分けるしかなかった。
飢餓のせいでドイツ女性はより利用しやすくなった。
それにもかかわらず、レイプはいたるところで行われ、
暴力を伴うことも多かった。
特によく覚えているのはライフルの銃床で横顔を殴られ、
二人のアメリカ兵にレイプされた18歳の女性だった。
フランス兵でさえ、
アメリカ兵のレイプ、略奪、酔っ払いの破壊はやりすぎだと文句を言っていた。
ルアーブルでわれわれは小冊子を与えられた。
そこにはフランス市民に対して
ドイツ兵は高い道徳的規範を維持していたこと、
われわれも同じように振舞うこと、と書かれていた。
これは惨めなほど失敗した。
「ドイツ兵の残虐行為はわれわれよりひどい。」
という者もいた。
略
アメリカ兵が100万人のドイツ兵捕虜を虐殺したという記事でした。
バターン死の行進でアメリカ兵捕虜が死にましたが、
死者の数がけたちがいです。
それに日本兵はアメリカ兵を殺害したのではありません。
これから、アメリカはドイツ人捕虜を虐殺したのだから、
バターン死の行進で日本を非難する資格はない、
などと言うつもりはありません。
それなら現在起こっているイラクの虐殺を
引き合いに出したほうが説得力があります。
この記事を書いたのは、強制収用所と歴史の捏造に興味があったからです。
死の強制収用所であれば、野原と有刺鉄線と監視塔があれば十分です。
前からFEMAの強制収用所については疑問に思っていました。
これで少しはわかりかけてきたような感じです。
ユダヤ人の強制収容所は有名ですが、
ボーア人強制収容所、南北戦争時の捕虜収容所はほとんど知られていません。
ホロコーストを宣伝するにはまずいからです。
ドイツ人捕虜が100万人死んだというのもまずいです。
これだとユダヤ人の死者を上回ってしまいます。
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何か食べれるものをさがすために
ゴミ箱をあさるドイツの女性を見かけるのが
普通のことになった。
追い払われることがなければ。
町長や村長にインタビューしたとき、
彼らの食料のたくわえは、
強制退去させられた人々(ドイツ国内で働いていた外国人)が
トラックで持ち去ったと言われた。
このことを報告すると、肩をすくめて無視された。
赤十字は収容所で見たことがなかった。
また市民を援助しているところも見たことがなかった。
次の収穫まで、隠しておいたたくわえをみなで分けるしかなかった。
飢餓のせいでドイツ女性はより利用しやすくなった。
それにもかかわらず、レイプはいたるところで行われ、
暴力を伴うことも多かった。
特によく覚えているのはライフルの銃床で横顔を殴られ、
二人のアメリカ兵にレイプされた18歳の女性だった。
フランス兵でさえ、
アメリカ兵のレイプ、略奪、酔っ払いの破壊はやりすぎだと文句を言っていた。
ルアーブルでわれわれは小冊子を与えられた。
そこにはフランス市民に対して
ドイツ兵は高い道徳的規範を維持していたこと、
われわれも同じように振舞うこと、と書かれていた。
これは惨めなほど失敗した。
「ドイツ兵の残虐行為はわれわれよりひどい。」
という者もいた。
略
アメリカ兵が100万人のドイツ兵捕虜を虐殺したという記事でした。
バターン死の行進でアメリカ兵捕虜が死にましたが、
死者の数がけたちがいです。
それに日本兵はアメリカ兵を殺害したのではありません。
これから、アメリカはドイツ人捕虜を虐殺したのだから、
バターン死の行進で日本を非難する資格はない、
などと言うつもりはありません。
それなら現在起こっているイラクの虐殺を
引き合いに出したほうが説得力があります。
この記事を書いたのは、強制収用所と歴史の捏造に興味があったからです。
死の強制収用所であれば、野原と有刺鉄線と監視塔があれば十分です。
前からFEMAの強制収用所については疑問に思っていました。
これで少しはわかりかけてきたような感じです。
ユダヤ人の強制収容所は有名ですが、
ボーア人強制収容所、南北戦争時の捕虜収容所はほとんど知られていません。
ホロコーストを宣伝するにはまずいからです。
ドイツ人捕虜が100万人死んだというのもまずいです。
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2008.03.28 (Fri)
アイゼンハワーの死の収容所にて 3
5月8日のV.E. Day(ヨーロッパ終戦日)だった。
私が監視している何人かの捕虜と一緒に祝うことに決めた。
連中はパンを焼いていて、他の捕虜にもときどき分けていた。
パンはこのグループしかもっていなかった。
戦争が終わったのでみな陽気だった。
私たちは皆、すぐに家に帰れると思った。
彼らには痛ましい希望であった。
われわれはフランス領になる所にいた。
そこで私はフランス軍の蛮行をすぐに目にするのであった。
slave labor camps(奴隷労働捕虜収容所)
へ行くために捕虜を移送したときに。
しかし、この日私たちは幸せだった。
友情の印に私はライフルの弾を抜いて、それを角に立てておいた。
彼らが願うのでライフルで遊ぶことまで許した。
これで座はなごやかになった。
私たちはすぐに歌いだした。
歌を教えあったり、ハイスクール時代に習ったドイツの歌も。
感謝の念から、彼らは特別な小さい甘いパンを私に焼いてくれた。
彼らに残された唯一のプレゼントだった。
ジャケットの中にそれを入れ、私はこっそり兵舎へ戻った。
だれもいないとき、それを食べた。
これほどおいしいパンを食べたことがない。
またパンを食べていたとき、これほど深い宗教心を感じたこともない。
その後まもなく、虚弱で病弱な捕虜がフランス兵に監視されて
フランスの収容所へ行進していく者もいた。
われわれは捕虜の縦隊の後ろのトラックに乗っていた。
時々トラックはスピードを落としたり、止まったりした。
おそらく運転手は私と同じようにショックを受けたからだろう。
ドイツ人捕虜がよろよろしたり、遅れたりすると、
いつも死ぬまで棍棒で頭を殴られた。
別のトラックが拾うために、死体は道路わきにころがされた。
多くの捕虜にとって、
前のkilling fieldsでゆっくり餓死するよりも、
この突然の死のほうが望ましいかもしれなかった。
ついにドイツ人の女性を別の囲い地で見たとき、
なぜわれわれが彼女たちを捕虜として拘束しているのか尋ねた。
彼女らは野営地のあとにしたがっていく、
優秀な種族をつくるためのS.S.の繁殖用家畜として選ばれた、
と私は教えられた。
私は何人かと話した。
これほど気概のある魅力的な女性グループに
会ったことがないと言わざるを得ない。
彼女たちが拘束に値するとは思えなかったのは確かだ。
私は通訳としてますます使われ、そして不運な逮捕を防ぐことが出来た。
M.P'に連行されていた年寄りの農民に関する面白い事件があった。
老人がおかしなナチスの勲章を持っているといって、私に見せた。
幸いにも、私はそれがどのようなものであるかわかる図表を持っていた。
彼は5人の子供を持っていたことで勲章を授与されていた。
われわれの死のキャンプは、ドイツに貢献した彼には公正な罰であるとは思えなかった。
それでM.P.も合意して彼を釈放した。
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私が監視している何人かの捕虜と一緒に祝うことに決めた。
連中はパンを焼いていて、他の捕虜にもときどき分けていた。
パンはこのグループしかもっていなかった。
戦争が終わったのでみな陽気だった。
私たちは皆、すぐに家に帰れると思った。
彼らには痛ましい希望であった。
われわれはフランス領になる所にいた。
そこで私はフランス軍の蛮行をすぐに目にするのであった。
slave labor camps(奴隷労働捕虜収容所)
へ行くために捕虜を移送したときに。
しかし、この日私たちは幸せだった。
友情の印に私はライフルの弾を抜いて、それを角に立てておいた。
彼らが願うのでライフルで遊ぶことまで許した。
これで座はなごやかになった。
私たちはすぐに歌いだした。
歌を教えあったり、ハイスクール時代に習ったドイツの歌も。
感謝の念から、彼らは特別な小さい甘いパンを私に焼いてくれた。
彼らに残された唯一のプレゼントだった。
ジャケットの中にそれを入れ、私はこっそり兵舎へ戻った。
だれもいないとき、それを食べた。
これほどおいしいパンを食べたことがない。
またパンを食べていたとき、これほど深い宗教心を感じたこともない。
その後まもなく、虚弱で病弱な捕虜がフランス兵に監視されて
フランスの収容所へ行進していく者もいた。
われわれは捕虜の縦隊の後ろのトラックに乗っていた。
時々トラックはスピードを落としたり、止まったりした。
おそらく運転手は私と同じようにショックを受けたからだろう。
ドイツ人捕虜がよろよろしたり、遅れたりすると、
いつも死ぬまで棍棒で頭を殴られた。
別のトラックが拾うために、死体は道路わきにころがされた。
多くの捕虜にとって、
前のkilling fieldsでゆっくり餓死するよりも、
この突然の死のほうが望ましいかもしれなかった。
ついにドイツ人の女性を別の囲い地で見たとき、
なぜわれわれが彼女たちを捕虜として拘束しているのか尋ねた。
彼女らは野営地のあとにしたがっていく、
優秀な種族をつくるためのS.S.の繁殖用家畜として選ばれた、
と私は教えられた。
私は何人かと話した。
これほど気概のある魅力的な女性グループに
会ったことがないと言わざるを得ない。
彼女たちが拘束に値するとは思えなかったのは確かだ。
私は通訳としてますます使われ、そして不運な逮捕を防ぐことが出来た。
M.P'に連行されていた年寄りの農民に関する面白い事件があった。
老人がおかしなナチスの勲章を持っているといって、私に見せた。
幸いにも、私はそれがどのようなものであるかわかる図表を持っていた。
彼は5人の子供を持っていたことで勲章を授与されていた。
われわれの死のキャンプは、ドイツに貢献した彼には公正な罰であるとは思えなかった。
それでM.P.も合意して彼を釈放した。
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2008.03.26 (Wed)
アイゼンハワーの死の収容所にて 2
ライン川を見下ろす丘の上で、
ドイツの民間人の女性グループを45口径ピストルで撃っている
大尉に出くわしたことがあった。
なぜ?と私が尋ねた。
彼はぼそぼそと「的の練習」と言って、弾がなくなるまで撃った。
女性たちが隠れ場所を求めて逃げているのが見えた。
離れていたから弾が当たった人がいたかわからなかった。
このときだった。
私がわかったのは。
憎しみに満ちた冷血な人殺しの連中を私は相手にしていることが。
ドイツ人は人間以下だから絶滅に値すると彼らは考えていた。
つまり、民族的優越感だ。
アメリカ兵向けの新聞は、異常なほどやせ衰えた人間の写真を載せ、
ドイツの強制収用所を宣伝していた。
このせいで正義の残酷がわれわれのなかで増大し、
われわれがしてはならぬ行動をまねするのを容易にしてくれた。
また、私が思うに、実戦を知らぬ兵士たちが、
自分がタフであることを証明しようとして捕虜や民間人に八つ当たりしていた。
これらの捕虜の多くは、
われわれの多くと同じように素朴で無知な農民であり、労働者であることがわかった。
時間がたつにつれ、彼らの多くが元気のないゾンビになった。
一方、発狂したり、自殺行為なやりかたで逃走しようとする者もいた。
白昼、ライン川に向かって野原を走りぬけ、のどの渇きをいやそうとして。
食べ物と同じようにタバコをほしがる捕虜もいた。
空腹を紛らわすためと言っていた。
それで商売っ気のある"ヤンキートレーダー"が
わずかなタバコと交換に時計と指輪を大量に手にしていた。
この取引を止めさせるために
タバコのカートンを捕虜に投げ始めたとき、私は兵士たちに脅された。
この陰鬱な状況のなかで唯一の明るいことは、ある夜、
夜中の2時から4時まで墓地の監視に当たったときだった。
墓地は、この囲い地の上り面にあった。
上官は懐中電灯を私に渡すのを忘れた。
そのときまで何もかもいやになっていたので、私は懐中電灯をたのまなかった。
かなり明るい夜だった。
一人の捕虜が有刺鉄線の下を這って、墓地に向かっているのに気づいた。
脱走兵を見つけるとすぐ射殺することになっていた。
それで戻るように警告するために私は地面から立ち上がろうとした。
突然、私は気づいた。
別の捕虜が墓地から囲い地へ這って戻ろうとしているのに。
彼らは何かを求めるために墓地までたどり着こうと、危険を冒していた。
調べなければならなかった。
私は低木で陰になった墓地の暗闇に入った。
まったくすきだらけであることはわかっていたが、
どういうわけか好奇心が私を前に進ませた。
注意していたにもかかわらず、うつ伏せになっていた誰かの足につまずいた。
ライフル銃をすばやく周囲に向けた。
つまずきながら、心と体を平静にしようとした。
撃ってこなかったのですぐホットした。
その人影は起き上がった。
しだいに、ピクニックバスケットを持った女性の
美しい、しかし、恐怖に引きつった顔がわかるようになった。
ドイツの民間人は捕虜に食物を与えることを許されていなかった。
また捕虜の近くに来ることも許されていなかった。
それですぐに、彼女がやっていることに私は賛成で、
恐れることはないと保証してやった。
それに邪魔にならないよう墓地から去ると伝えた。
すぐ墓地から離れて腰を下ろした。
目立たないように、そして捕虜を怖がらせないように墓地の端にある木にすがっていた。
そのとき想像していた。
まだ今でも想像している。
捕虜になってこのような状況で、
ピクニックバスケットを持った美しい女性と出会うのはどんなものだろうか、と。
彼女の顔を忘れたことはなかった。
やがて多くの捕虜が囲い地に這って戻っていった。
彼らの仲間のもとへ食物を引きずっている姿を見た。
私には彼らの勇気と献身を称賛するしかなかった。
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ドイツの民間人の女性グループを45口径ピストルで撃っている
大尉に出くわしたことがあった。
なぜ?と私が尋ねた。
彼はぼそぼそと「的の練習」と言って、弾がなくなるまで撃った。
女性たちが隠れ場所を求めて逃げているのが見えた。
離れていたから弾が当たった人がいたかわからなかった。
このときだった。
私がわかったのは。
憎しみに満ちた冷血な人殺しの連中を私は相手にしていることが。
ドイツ人は人間以下だから絶滅に値すると彼らは考えていた。
つまり、民族的優越感だ。
アメリカ兵向けの新聞は、異常なほどやせ衰えた人間の写真を載せ、
ドイツの強制収用所を宣伝していた。
このせいで正義の残酷がわれわれのなかで増大し、
われわれがしてはならぬ行動をまねするのを容易にしてくれた。
また、私が思うに、実戦を知らぬ兵士たちが、
自分がタフであることを証明しようとして捕虜や民間人に八つ当たりしていた。
これらの捕虜の多くは、
われわれの多くと同じように素朴で無知な農民であり、労働者であることがわかった。
時間がたつにつれ、彼らの多くが元気のないゾンビになった。
一方、発狂したり、自殺行為なやりかたで逃走しようとする者もいた。
白昼、ライン川に向かって野原を走りぬけ、のどの渇きをいやそうとして。
食べ物と同じようにタバコをほしがる捕虜もいた。
空腹を紛らわすためと言っていた。
それで商売っ気のある"ヤンキートレーダー"が
わずかなタバコと交換に時計と指輪を大量に手にしていた。
この取引を止めさせるために
タバコのカートンを捕虜に投げ始めたとき、私は兵士たちに脅された。
この陰鬱な状況のなかで唯一の明るいことは、ある夜、
夜中の2時から4時まで墓地の監視に当たったときだった。
墓地は、この囲い地の上り面にあった。
上官は懐中電灯を私に渡すのを忘れた。
そのときまで何もかもいやになっていたので、私は懐中電灯をたのまなかった。
かなり明るい夜だった。
一人の捕虜が有刺鉄線の下を這って、墓地に向かっているのに気づいた。
脱走兵を見つけるとすぐ射殺することになっていた。
それで戻るように警告するために私は地面から立ち上がろうとした。
突然、私は気づいた。
別の捕虜が墓地から囲い地へ這って戻ろうとしているのに。
彼らは何かを求めるために墓地までたどり着こうと、危険を冒していた。
調べなければならなかった。
私は低木で陰になった墓地の暗闇に入った。
まったくすきだらけであることはわかっていたが、
どういうわけか好奇心が私を前に進ませた。
注意していたにもかかわらず、うつ伏せになっていた誰かの足につまずいた。
ライフル銃をすばやく周囲に向けた。
つまずきながら、心と体を平静にしようとした。
撃ってこなかったのですぐホットした。
その人影は起き上がった。
しだいに、ピクニックバスケットを持った女性の
美しい、しかし、恐怖に引きつった顔がわかるようになった。
ドイツの民間人は捕虜に食物を与えることを許されていなかった。
また捕虜の近くに来ることも許されていなかった。
それですぐに、彼女がやっていることに私は賛成で、
恐れることはないと保証してやった。
それに邪魔にならないよう墓地から去ると伝えた。
すぐ墓地から離れて腰を下ろした。
目立たないように、そして捕虜を怖がらせないように墓地の端にある木にすがっていた。
そのとき想像していた。
まだ今でも想像している。
捕虜になってこのような状況で、
ピクニックバスケットを持った美しい女性と出会うのはどんなものだろうか、と。
彼女の顔を忘れたことはなかった。
やがて多くの捕虜が囲い地に這って戻っていった。
彼らの仲間のもとへ食物を引きずっている姿を見た。
私には彼らの勇気と献身を称賛するしかなかった。
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2008.03.25 (Tue)
アイゼンハワーの死の収容所にて 1

In 'Eisenhower's Death Camps': A U.S. Prison Guard's Story より翻訳
アイゼンハワーの死の収容所にて
あるアメリカ監視兵の物語
1945年の3月下旬か4月上旬、私は、
ライン川沿いにあるアンデルナッハ近くの捕虜収容所に配属された。
私は高校時代、4年間ドイツ語を習った。
だから、捕虜と話をすることができたが、これは禁じられていた。
しかし、 徐々に、私は通訳として使われ、
S.Sのメンバーを探し出すことを求められた。
(一人も見つけることはなかった。 )
アンデルナッハには、あらゆる年齢層の捕虜が5万人、
鉄条網で囲まれた野原に収容されていた。
女性は別の囲い地に収容されていたが、 私は見ることがなかった。
私が監視していた男たちには小屋もなく、毛布もなかった。
コートを持っていない者も多かった。
彼らは泥まみれで、湿って冷たい中で寝ていた。
そばには、排泄物のための不衛生な細長い堀があった。
寒い、湿った春だった。
外見だけからも彼らが悲惨であることがわかった。
さらに衝撃的だったのは、
薄いスープが入ったブリキ缶に、捕虜が草や雑草をいれていた。
これが飢えを和らげるのに役立つ、と彼らは言った。
すぐに、彼らはやせ衰えた。
赤痢がはやった。
まもなく、彼らは自分の排泄物の中で眠っていた。
体が衰弱し、人が多いために
細長い堀までたどりつくことができなかった。
捕虜の多くが食べ物を懇願した。
私たちの目の前で病気になり、死んでいった。
われわれには十分な食料と物資があった。
しかし、彼らを助けるようなことは何もしなかった。
医療援助もなかった。
憤慨して私は上官連中に抗議した。
返ってきたのは敵意か平然とした無関心であった。
返答に窮した上官は、
かなり上のほうから厳しく命令されていると説明した。
抗議しても無駄だとわかったので、調理係の友人に尋ねた。
捕虜のために余分な食料をこっそりもらえることができるか?
捕虜の食物を厳しく制限するという命令を受けていると彼も話した。
そしてこの命令はかなり上から来ているとも話した。
しかし、彼は何とか食物を調達してこっそり私に渡してくれると、言った。
有刺鉄線越しにこの食料を捕虜に投げていたとき、
私は見つかって拘禁するぞと脅された。
私が抗議を繰り返したので、ある上官は怒って私を撃ち殺すと脅した。
2008.03.24 (Mon)
ドレスデン虐殺

http://www.erichufschmid.net/EyewitnessToDresden.htmlより
60万人の市民が殺害されました。
100万人のドイツ人捕虜が同じ運命をたどるのも不思議ではありません。
東京大空襲、広島、長崎、ドレスデン。
みんな同じです。
人間を殺すために行われたのです。
2008.03.24 (Mon)
Who was Eisenhower working for?
Did you hear about Dresden?

ドレスデンについて聞いたことがありますか。
皆が軍事的価値がまったくないと認める、
ドレスデン空爆について聞いたことがありますか。
それは、ただドイツ市民を殺害する目的のために行われた。
だれがそれをやったのか?
そしてなぜそれをやったのか?
誰かとても地位が高い軍指導者が、
(たとえばアイゼンハワーやチャーチルといった)
この空爆を計画し、認可した。
アイゼンハワーはなぜ多くのドイツ人を虐殺したのだろうか?
パットン将軍は、このようなことをしなかった 。
ちなみに、戦後、謎の自動車事故でパットン将軍は死んだが、
アイゼンハワーはすぐに大統領に選出された。
偶然か?
私はそうは思わない!
Who was Eisenhower working for?
アイゼンハワーは誰のために動いていたのか?
アイゼンハワーの軍事学校の卒業アルバムに、
「ものすごいスウェーデン-ユダヤ人」と書かれていたことを知っていましたか?
ここにその写真があります。
http://judicial-inc.biz/Hopie_ike.htm
アイゼンハワーがものすごいやつだろうが、
スウェーデン人だろうが、ユダヤ人だろうがかまわない。
しかし、無意味なゴイム虐殺と大統領になったことは
彼が本当は隠れシオニストであることを示している。
アイゼンハワーを擁護する人のなかには、
軍産複合体についてあいまいな発言をした彼の演説を指摘する。
しかし、これが彼が信用できるという証拠にはならない。
軍産複合体とは何か?
アメリカ軍と軍事産業を非難することによって、
アイゼンハワーはイスラエルを守ろうとした、と私は考えている。

ドレスデンについて聞いたことがありますか。
皆が軍事的価値がまったくないと認める、
ドレスデン空爆について聞いたことがありますか。
それは、ただドイツ市民を殺害する目的のために行われた。
だれがそれをやったのか?
そしてなぜそれをやったのか?
誰かとても地位が高い軍指導者が、
(たとえばアイゼンハワーやチャーチルといった)
この空爆を計画し、認可した。
アイゼンハワーはなぜ多くのドイツ人を虐殺したのだろうか?
パットン将軍は、このようなことをしなかった 。
ちなみに、戦後、謎の自動車事故でパットン将軍は死んだが、
アイゼンハワーはすぐに大統領に選出された。
偶然か?
私はそうは思わない!
Who was Eisenhower working for?
アイゼンハワーは誰のために動いていたのか?
アイゼンハワーの軍事学校の卒業アルバムに、
「ものすごいスウェーデン-ユダヤ人」と書かれていたことを知っていましたか?
ここにその写真があります。
http://judicial-inc.biz/Hopie_ike.htm
アイゼンハワーがものすごいやつだろうが、
スウェーデン人だろうが、ユダヤ人だろうがかまわない。
しかし、無意味なゴイム虐殺と大統領になったことは
彼が本当は隠れシオニストであることを示している。
アイゼンハワーを擁護する人のなかには、
軍産複合体についてあいまいな発言をした彼の演説を指摘する。
しかし、これが彼が信用できるという証拠にはならない。
軍産複合体とは何か?
アメリカ軍と軍事産業を非難することによって、
アイゼンハワーはイスラエルを守ろうとした、と私は考えている。
2008.03.24 (Mon)
穴を掘ってテントのかわりにします
2008.03.24 (Mon)
テントがない捕虜はどうするのでしょうか?
2008.03.24 (Mon)
アメリカ兵と有刺鉄線
2008.03.24 (Mon)
God, I hate the Germans
2008.03.24 (Mon)
1989年9月号のSaturday Night
http://www.erichufschmid.net/TFC/Eisenhower-death-camps.htmlより翻訳
ドワイト・アイゼンハワー 将軍
ナチスから救ってくれた英雄か?
または大量殺人のシオニストか?
第二次世界大戦でドイツが敗北した後で、
アイゼンハワーが故意に約100万人のドイツ軍兵士を
殺害した証拠を見たことがあるか?
1989年9月号のSaturday Nightには、
虐殺の記事と写真が載っていた。
アイゼンハワーがやったことを理解すれば、
次の哲学的な質問に答えることができるだろう。
アウシュヴィッツは、「囚人」キャンプか、それとも"死"のキャンプか?
次の短いビデオを見れば、この問題を解決できるだろう。
http://www.erichufschmid.net/TFC/video/Eisenhower-Death-Camp.wmv
ドワイト・アイゼンハワー 将軍
ナチスから救ってくれた英雄か?
または大量殺人のシオニストか?
第二次世界大戦でドイツが敗北した後で、
アイゼンハワーが故意に約100万人のドイツ軍兵士を
殺害した証拠を見たことがあるか?
1989年9月号のSaturday Nightには、
虐殺の記事と写真が載っていた。
アイゼンハワーがやったことを理解すれば、
次の哲学的な質問に答えることができるだろう。
アウシュヴィッツは、「囚人」キャンプか、それとも"死"のキャンプか?
次の短いビデオを見れば、この問題を解決できるだろう。
http://www.erichufschmid.net/TFC/video/Eisenhower-Death-Camp.wmv
2008.03.24 (Mon)
General Dwight Eisenhower
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