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2008.03.11 (Tue)
ナチス・ドイツも驚くような惨劇

ドイツ軍を解放者として歓迎するウクライナ人たち (1941年)
ユダヤ人迫害はナチス・ドイツとロシアだけではありませんでした。
リトアニア、ポーランド、スロバキア、ルーマニア、ハンガリーでも迫害が起こり、
ナチス・ドイツも驚くような惨劇が発生しました。
http://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/a4fhb400.htmlより転載
リトアニア
「ユダヤ人にとってスラボトケ(リトアニアの一地区)は、殺戮の地とされていた。
ナチス・ドイツの対ソ不意打ち攻撃が始まってわずか3日後の6月25日、
リトアニア人によるユダヤ人虐殺の最初の惨劇が、
ここで繰り広げられたのである。
夜更け、斧や銃、ナイフで武装したリトアニア人たちの大きな集団が、
ユダヤ人の集中的居住地区に三々五々集まってきた。
朝の光は無残な光景を照らし出した。
男も女も子どもも四肢をばらばらにされており、家の中は壁も床も血だらけだった。
酒に酔ったリトアニア人は、犠牲者の首でサッカーをしたとも伝えられている。
この夜、700人をこえる人々が生命を落とした。
ポーランド

ポーランドはナチスが追放されたあともユダヤ人にとって平安の地ではなかった。
8万6000人がナチスの反ユダヤ政策を生き残り、
13万6000人が1946年7月までにソ連から引き揚げてきた。
このわずかのユダヤ人に対して各地で
ポーランド人による襲撃事件(ポグロム)が発生した。
その犠牲者はあわせて2000人と見積もられている。
なかでも有名なのは1946年7月の「キェルツェ事件」である。
群衆が根も葉もない噂に興奮して次々と40人を虐殺し、それを当局が傍観視した。
多くのユダヤ系市民は恐怖に駆られて出国した。
その数は1945年7月から1年半で13万人にのぼった。
第二次大戦中の1941年にポーランド北東部で起きた
ユダヤ人大量虐殺事件を調査している同国の国家記憶協会(IPN)は
4日、有名な「イエドワブネ事件」以外に
少なくとも30件の虐殺事件がナチスではなく
ポーランド住民によって引き起こされたとする報告書を発表した。
報告書によると、ユダヤ人生存者の証言や
共産政権下の裁判記録から、20以上の町で
数百人のユダヤ人が地元住民に殺害されたことが判明。
約1600人が納屋で焼き殺されるなどしたイエドワブネの事件が、
特異なケースではないことが明らかになった。
スロバキア
スロバキアは、ナチスのSS親衛隊を真似た
「フリンカ警備隊」とか「スロバキアSS隊」というグループも組織し、
ユダヤ人の逮捕や輸送の任を自ら買って出たりした。
彼らは国内くまなくユダヤ人を追及して、約7万5000人を狩り出したが、
これはスロバキアに住む全ユダヤ人の85%に相当し、
これらの人々は例外なくアウシュヴィッツに送られた。
また、ルーマニアは、ソ連における占領地域に
「ユダヤ人強制収容所」を作ったが、
そこには無制限にユダヤ人を送り込んで片端から殺していった。
それがまた、ドイツ人から見ても我慢ならない
手段方法が講じられていたというので、
ナチスのSS幹部から「少しは合法的にやれ!」
と、叱責されたということも伝えられてる。
ハンガリー
ハンガリー一般民衆のユダヤ輸送に対する反応は、
尋常一様のものではない、という以外に言いようがない。
ハンガリーのインテリや中産階級は
ナチスの反ユダヤ宣伝に完全に染まってしまっているようだ。
この国のジャーナリズムの伝えるところでは、
大多数の住民がユダヤ追跡、検挙に進んで協力を申し出、
その熱意には政府も顔負けしたほどだという。

1944年11月8月、ハンガリーの親ナチ「矢十字党」政権は、
ハンガリー警察の監視の下、4万人のユダヤ人をブダペストから
オーストリア国境まで180キロの厳寒の道程を、
水も食料も与えずに歩かせる「死の行進」を断行した。
道中で多くのユダヤ人が倒れた。
スウェーデン外交官としてハンガリーに赴任したラウル・ワレンバーグは、
その行進をトラックで追いかけ、食料や衣類を与え、
約4000人をブダペストに連れ戻した。
「死の行進」は24日で打ち切られた。
2008.03.11 (Tue)
ユダヤ人の大移住


大型の蒸気船に乗って大西洋を越えるユダヤ移民たちの群れ
http://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/a4fhb200.htmlより転載
1881年にウクライナ南部(黒海北岸)において発生した一連のポグロムは、
ロシアにいるユダヤ人たちに大きな衝撃を与え、
ロシア・ユダヤ人社会に大きく分けて“3つの動き”を生み出すことになった。
1つめの動きは、ユダヤ人の大移住である。
1881年から1910年まで、300万人近くのユダヤ人が、ロシアを離れて他国へと移住した。
その7割は、アメリカ合衆国を目ざしている。
ユダヤ人は、エルサレム陥落以後、全世界に「離散の民」として移り住んだが、
これほど短期間における大規模な移住は、かつて例を見ない。
しかも彼らは組織もなく自発的にロシアを去ったのである。
2つめの動きは、革命への積極的参加である。
ロシアに残ったユダヤ人、とりわけ青年の一部は、革命によって自由と権利を得ることこそ
ユダヤ人問題の唯一の解決だとして、革命運動に参加したのであった。
3つめの動きは、シオニズム運動の開始である。
一部のユダヤ人は、当時オスマン・トルコ帝国下にあった
パレスチナにユダヤ人の国家を樹立することこそ、
迫害の唯一の解決と考え、シオニズム運動を展開した。
1882年にはユダヤの学生組織ビールー派によって、「ビールー運動」が開始された。
「ビールー運動」は、またたく間にロシアのユダヤ人青年の間に広まった。
1884年には秘密警察を避けて、国境を越えたドイツ領内の町カトヴィッツで
第1回の全国大会を開いた。
その後、十数年間に約1万人のユダヤ青年がパレスチナへ渡り、
約40ヶ所の地点に定着した。
これがいわゆるシオニストの“第一波移民”である。
このパレスチナへの移住運動は「アリヤー運動」と呼ばれ、
1904年から1914年までの10年間に、
約4万人の東欧ユダヤ人がパレスチナに流入したのであった。
このように、一般には、ハンガリー生まれのユダヤ人
テオドール・ヘルツルが“近代シオニズムの父”とされているが
帝政ロシアにおいてすでにシオニズム運動は生まれていたのである。
1897年の国勢調査によれば、
ロシア帝国内には520万人のユダヤ人が生活しており、
人口の約4%を占めていた。
このうち、ユダヤ人「定住区域」には490万人、
人口の11.5%が住んでおり、
この地域の範囲内でポーランド王国に限れば、
130万人、人口の14%が住んでいた。
田舎に居住している者はユダヤ人の13.5%、
都市に居住している者は86.5%であった。
ロシア革命直後における共産党員の民族別構成比の統計に目を通すと、
次のような現象が見い出される。
それは、総人口中の比に対して、ユダヤ人の場合、
他と比較して党員中の割合が、かなり高いということである。
ロシア革命期に目を転じると、この時期にもユダヤ知識人の革命家が、
実に多く存在していたことがわかる。
トロツキー、カーメネフ、ジノヴィエフ、ラデック、
さらにメンシェヴィキのマルトフなど、
革命指導者のほとんどは、ユダヤ人であったといえる。
ロシア革命以後しばらくの間、
国内のユダヤ人は法的な面ではかつてなかったほどうまくいっていた。
ユダヤ人は都市住民の8%、商人の20%、
手工業者の40%を占めるようになっていた。
しかし、スターリンの権力体制への移行にともない、
情勢はふたたび急変した。
個人企業家は全面的に禁止された。
多数のユダヤ人が階級の敵であると宣告された。
彼らは選挙権を失い、高等教育を受ける権利や医療を受ける権利、
食料切符を受ける権利を失った。
ソ連は第二次世界大戦後、ユダヤ人を差別し続けた。
スターリン時代からソ連崩壊にいたるまで、
ソ連の上級官僚に任命されたユダヤ人は皆無に近い。
教育でも就職でも、ユダヤ人は常に差別されてきた。
ブレジネフ時代にユダヤ人にもたらされた恩恵といえば、
ただ1つ、出国の機会だった。
2008.03.11 (Tue)
ポグロム
1881〜1884年のポグロムの発生状況
黒海北岸で集中的に起きている

http://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/a4fhb200.htmlより転載
ウクライナに住んでいたユダヤ人は、活発な商業活動を展開していた。
例えば当時、ウクライナの周辺都市に点在していた
居酒屋の80%近くはユダヤ人が経営していた。
また、ユダヤ人たちは借地小作雇主としても活動し、目立つ存在であった。
こんなユダヤ人たちに対し、ウクライナの農民とコサックたちは、
「搾取者」とみなして敵意を募らせていた。
なお注意しないといけないのは、
ウクライナに住んでいた一般のユダヤ市民のほとんどは、
都市下層民に属していたという点である。
この地域のユダヤ人は、北西ロシアに比較すると、
経済的には恵まれてはいたが、貧しさは共通していた。
当時のユダヤ人の状況に関する調査報告には、
ユダヤ人の多くは貧困状態にあり、食事は通常、
パンと野菜のみであったと記されている。
キエフのある地主の報告によれば、ほとんどのユダヤ人は
ウクライナ農民よりも貧しかったとさえ述べられている。
1648年、まだウクライナがポーランド領であった頃、
ウクライナ・コサックによるユダヤ人虐殺事件が発生した。
いわゆる「フメリニツキーの乱」である。
ボグダン・フメリニツキーのもとに集まったウクライナ・コサックは、
ウクライナとポーランドの行く先々でユダヤ人を襲い、
金品を略奪したあげく虐殺した。
約50万ものユダヤ人が殺された。
ボグダン・フメリニツキーは、ロシア史においては、
コサックと農民の反乱指導者として、
ウクライナをポーランドから解放し、
ロシア支配に至らせたとして高く評価されている。
しかしその反乱において、ユダヤ人を虐殺し、
ユダヤ共同体を破壊したために、
ユダヤ年代記では「邪悪なフメル」と記されている。
虐殺は、ガリチア地方(西ウクライナ)を中心として、
ベロルシア、さらにウクライナ南東部にも及んだ。
この虐殺と破壊によって、ユダヤ人共同体は、崩壊的危機に立たされた。
さらに、1734年から1736年にかけても
ウクライナにおいて「ハイダマク」という名称の集団が、
ユダヤ人虐殺を行なった。
このハイダマク運動においては、
フメリニツキー以上にユダヤ人虐殺に目標が置かれ、
しかもロシア正教会が反ユダヤ宣伝を行なったのである。
ロシアにおけるユダヤ迫害は、一般に「ポグロム」と呼ばれているが、
一番最初のポグロム(本格的なタイプ)がどこで起きたのか知る人は少ない。
一番最初のポグロムは、1871年にウクライナ南部──
黒海北岸の都市オデッサで発生した。
1881年の春、アレクサンドル2世が暗殺されると、
この犯行グループの中にユダヤ人女性革命家
ゲシア・ゲルフマンがいたことから、
民衆の間で「皇帝殺しのユダヤ人に制裁を加えるべきだ!」
という煽動がなされた。
そのため、この皇帝暗殺事件を機にポグロムは爆発的に波及したのだが、
興味深いことに、ほぼ全てのポグロムが
ウクライナ南部の定住区域──
かつてのハザール王国領と重なる地域(黒海北岸)に集中していたのである。
当時のユダヤ人作家は、この時のポグロムを
「ウクライナ南部(黒海北岸)の暴風」と呼んでいた。
ポグロム加害者は、ウクライナ農民と町人、それも下層労働者が多く、
被害者はユダヤ町人、商人であり、こちらも下層民が多かった。
依然として黒海北岸で集中的に起きている。
なお、ロシアの支配機構の内部には、
人道的ないしは経済戦略的な理由から、
反ユダヤ政策の段階的撤廃を望む人物もいた。
とくにロシアの大蔵大臣らは種々の規定の緩和を支持した。
彼らは、ユダヤ人がロシア帝国において
重要な経済的要素たり得ることを理解していた。
そして、ユダヤ人敵視の政策がこの先ずっと継続した場合、
国際的な枠組みにおいて──
外国のユダヤ人銀行家からの影響に基づいて、
不利益が生じることを恐れていた。
1903年〜1906年の主なポグロム発生地

黒海北岸で集中的に起きている

http://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/a4fhb200.htmlより転載
ウクライナに住んでいたユダヤ人は、活発な商業活動を展開していた。
例えば当時、ウクライナの周辺都市に点在していた
居酒屋の80%近くはユダヤ人が経営していた。
また、ユダヤ人たちは借地小作雇主としても活動し、目立つ存在であった。
こんなユダヤ人たちに対し、ウクライナの農民とコサックたちは、
「搾取者」とみなして敵意を募らせていた。
なお注意しないといけないのは、
ウクライナに住んでいた一般のユダヤ市民のほとんどは、
都市下層民に属していたという点である。
この地域のユダヤ人は、北西ロシアに比較すると、
経済的には恵まれてはいたが、貧しさは共通していた。
当時のユダヤ人の状況に関する調査報告には、
ユダヤ人の多くは貧困状態にあり、食事は通常、
パンと野菜のみであったと記されている。
キエフのある地主の報告によれば、ほとんどのユダヤ人は
ウクライナ農民よりも貧しかったとさえ述べられている。
1648年、まだウクライナがポーランド領であった頃、
ウクライナ・コサックによるユダヤ人虐殺事件が発生した。
いわゆる「フメリニツキーの乱」である。
ボグダン・フメリニツキーのもとに集まったウクライナ・コサックは、
ウクライナとポーランドの行く先々でユダヤ人を襲い、
金品を略奪したあげく虐殺した。
約50万ものユダヤ人が殺された。
ボグダン・フメリニツキーは、ロシア史においては、
コサックと農民の反乱指導者として、
ウクライナをポーランドから解放し、
ロシア支配に至らせたとして高く評価されている。
しかしその反乱において、ユダヤ人を虐殺し、
ユダヤ共同体を破壊したために、
ユダヤ年代記では「邪悪なフメル」と記されている。
虐殺は、ガリチア地方(西ウクライナ)を中心として、
ベロルシア、さらにウクライナ南東部にも及んだ。
この虐殺と破壊によって、ユダヤ人共同体は、崩壊的危機に立たされた。
さらに、1734年から1736年にかけても
ウクライナにおいて「ハイダマク」という名称の集団が、
ユダヤ人虐殺を行なった。
このハイダマク運動においては、
フメリニツキー以上にユダヤ人虐殺に目標が置かれ、
しかもロシア正教会が反ユダヤ宣伝を行なったのである。
ロシアにおけるユダヤ迫害は、一般に「ポグロム」と呼ばれているが、
一番最初のポグロム(本格的なタイプ)がどこで起きたのか知る人は少ない。
一番最初のポグロムは、1871年にウクライナ南部──
黒海北岸の都市オデッサで発生した。
1881年の春、アレクサンドル2世が暗殺されると、
この犯行グループの中にユダヤ人女性革命家
ゲシア・ゲルフマンがいたことから、
民衆の間で「皇帝殺しのユダヤ人に制裁を加えるべきだ!」
という煽動がなされた。
そのため、この皇帝暗殺事件を機にポグロムは爆発的に波及したのだが、
興味深いことに、ほぼ全てのポグロムが
ウクライナ南部の定住区域──
かつてのハザール王国領と重なる地域(黒海北岸)に集中していたのである。
当時のユダヤ人作家は、この時のポグロムを
「ウクライナ南部(黒海北岸)の暴風」と呼んでいた。
ポグロム加害者は、ウクライナ農民と町人、それも下層労働者が多く、
被害者はユダヤ町人、商人であり、こちらも下層民が多かった。
依然として黒海北岸で集中的に起きている。
なお、ロシアの支配機構の内部には、
人道的ないしは経済戦略的な理由から、
反ユダヤ政策の段階的撤廃を望む人物もいた。
とくにロシアの大蔵大臣らは種々の規定の緩和を支持した。
彼らは、ユダヤ人がロシア帝国において
重要な経済的要素たり得ることを理解していた。
そして、ユダヤ人敵視の政策がこの先ずっと継続した場合、
国際的な枠組みにおいて──
外国のユダヤ人銀行家からの影響に基づいて、
不利益が生じることを恐れていた。
1903年〜1906年の主なポグロム発生地

2008.03.11 (Tue)
ロシアの巨大なゲットー

黒く塗られたエリアがロシアの巨大なゲットーと呼ばれる
「定住区域」(ユダヤ人制限居住地域)である。
1791年から1917年まで、ユダヤ人が移動することが禁じられた。
http://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/a4fhb200.htmlより転載
なお、『原初年代記』によれば、ハザール王国のユダヤ人が、
キエフ・ロシア国のウラジミール公にユダヤ教改宗を進言したとある。
しかしウラジーミル公は、988年に、
先進的な文明国であったビザンチン帝国(東ローマ帝国)から
キリスト教を取り入れ、この地にキリスト教文化を広めることになる。
ハザール・ユダヤ人は以後、キリスト教会側から
ロシア人に改宗を挑んだ者として敵意をもって見られるようになり、
11世紀に入ると、ハザール王国は、
キエフ・ロシア国とビザンチン帝国の連合軍に攻撃され、
大きなダメージを受けてしまう。
ユダヤ人追放令は、以後何度も出された。
1610年にはシュイスキー、1727年にはピョートル2世が、
さらに1744年には女帝エリザベータが約3万5000人のユダヤ人を
リヴォニアから9年以内に追放するように命じた。
この追放令に対しては、ユダヤ人の商業活動による利益を
考慮した元老院からの反対があったが、エリザベータは、
「私はキリストの敵から利益を得たくない」としてこれを拒否した。
1762年に就任した女帝エカチェリーナ2世は、
それまでの皇帝によるユダヤ人政策を受け継ぎ、
1762年に、ユダヤ人以外の外国商人に対しては、入国許可令を出した。
しかしこのようなユダヤ人の入国を許可しない政策は
「ポーランド分割」によって無意味になった。
なぜなら、1772年の第1回ポーランド分割によって
約20万人のユダヤ人が、
さらに1793年と1795年の分割によって
約70万人のユダヤ人がロシア支配下となり、
短期間で合わせて約100万人ものユダヤ人が
ロシア支配下になったためだ。
その結果、ロシアは、当時、
世界で最大のユダヤ人口を有する国となったのであった。
同時に、それまでのユダヤ人追放令は機能しなくなり、
廃止せざるをえなくなってしまった。
このままユダヤ人を自由にさせていては、
ロシア帝国内にユダヤ人が流れ込んでしまう。
そのことを内心恐れ始めていたエカチェリーナ2世は、
ロシア帝国の支配下に入った地域のユダヤ人全員の移住を禁じ、
その土地に縛り付ける政策を実施するようになる。
いわゆる「定住区域」という名の巨大なゲットーのスタートである。
エカチェリーナ2世がこの「定住区域」を設定したのは、
皇帝による伝統的なユダヤ人追放令の延長ともいえるが、
直接には、ユダヤ商人によるロシア国内での商業活動を
恐れたロシア商人の要求によるものであった。
1801年に就任したロシア皇帝アレクサンドル1世は、
「ユダヤ人改善委員会」を設置して、
漸進的にユダヤ人を矯正して改宗させようとしたが、
それはユダヤ人の反対にあい失敗に終わった。
そこで、次に就任したロシア皇帝ニコライ1世は、
「兵営学校制度」などを施行し、ユダヤ人の強制同化策を取った。
しかしこの制度によって改宗したユダヤ人はごく少数であった。
また改宗を拒んだユダヤ人の中には、自殺した者も少なくなかった。
ロシアの定住区域の拡大図
定住区域外の東部の町にも多くのユダヤ人が住んでいた。

2008.03.11 (Tue)
ユダヤ人の西欧居住
http://kansai.jasnaoe.or.jp/ksnaj/k-senior/old/DOC/judea/risan.html#52
より転載
ユダヤ人の西欧居住はローマ時代に遡る。
エルサレムの第二神殿が破壊された紀元70年以来、
ローマ軍団により、彼等は捕虜、商人、医者等として連れ込まれた。
そして、イタリア、スペイン、フランス、ドイツ等
ローマ帝国の全領土に住み着いた。
最初は農夫やまた国際商人、職人として働いた。
ローマ皇帝がキリスト教に改宗して以来、
ユダヤ人はキリスト教との間に厳しい区別を設けられながら、
手工業の職人として働いた。
ユダヤ教徒が中世の西欧社会から排除されていったのは
12世紀末-13世紀、 十字軍運動の宗教的狂乱時代においてであった。
カトリック教会は、ユダヤ教を、キリストを裏切った憎い宗教として
「交際禁止」等の差別政策を発令、
ユダヤ教徒は農耕、都市での手工業、国際貿易等、
一切の生業を捨て、社会から閉め出された。
ただ、一つだけ、キリスト教徒が従事してはいけない
金融業、行商等は許され、それにより辛うじて生計を維持し、
そして納税しなければならなかった。
カトリックの教義では、「利子取得は罪悪、イエス殺しの裏切り者、ユダヤ人は
日々、利子取得の罪を犯し続けるのがふさわし」と云う考え方であった。
しかし社会にとって金融業は必要である。
ユダヤ教を差別するが、「根絶やし」は避け、
彼等に金融業をやらせて社会に役立たせる。」と云う「ずるい考え」であった。
1095年、イスラム圏パレスチナを解放するため、キリスト教徒は十字軍を組織した。
そして、最初の血祭りとして、ユダヤ人が襲われた。
欧州各地のユダヤ教の共同体は次々に襲われ、
略奪、大量虐殺が行われ、無数の難民が発生した。
1215年、キリスト教とユダヤ教の共存がきびしく禁止され、
ユダヤ教徒は異なる衣服、パッチ(布切れ)を付けされた。
これはユダヤ教徒がキリスト教徒の女性と交わることを防止するためであった。
そして、これがゲットーの設置へと繋がった。
13世紀の後半、まずドイツでユダヤ教徒の特定地区への強制隔離が実行された。
ゲットーの始まりであった。
ゲットーの周囲は壁で囲まれ、日暮れと共に門は閉ざされた。
やがて、ゲットーは西欧各地に拡がり、ユダヤ教徒の物理的隔離体制が完成する。
こうして、ユダヤ教徒達は、西欧キリスト教社会の最底辺に位置し
誰からも相手にされない「被差別集団」として形造られていった。
中世、西欧キリスト教徒により
「儀式殺人」「聖餅冒涜」と云う中傷が度々なされた。
「儀式殺人」とは、「ユダヤ人がキリスト教徒を誘拐し、拷問にかけ、
生き血を抜取ってユダヤ教の儀式に使う」と云う、
根も葉もない流言が何処からとなく飛び、人々はそれを信じた。
「聖餅冒涜」は「カトリックのミサに使われる小さいパンを
ユダヤ教徒が盗みピンを刺したり、叩き潰して冒涜する」
と云う馬鹿げたデマである。
いずれの場合も、その都度、ユダヤ人が告発され、
自白を強要され、殺され、財産を没収された。
これらは13世紀、頻繁に行われた。ユダヤ人に対する中傷は、
ペストの流行(14世紀中頃、全ヨーロッパを襲い、
250万人の命を奪った)で頂点に達した。
「ユダヤ人が井戸に毒を投げ入れたためだ」
との噂が飛び、多数のユダヤ人がキリスト教徒に襲われ、殺害された。
以上が西欧、中世におけるユダヤ人迫害である。
すべて、カトリック教会の主導でキリスト教徒が行った宗教的迫害であった。
迫害に耐えかね、多くのユダヤ教徒は東欧等に逃れた。
14-15世紀以降20世紀前半まで、東欧がユダヤ人の中心地となった。
なかでも、ユダヤ人に対して寛容な政策を採るポーランドは
ヨーロッパ中でユダヤ人移住者がを最も多い国となった。
ポーランドは農業国で貴族達の所有する荘園を農奴が耕し、
商業は未だ発展していなかった。
王侯、貴族は国の建設を助けて呉れるユダヤ人達を歓迎した。
ユダヤ人達は大都市にユダヤ人社会を造り手工業(製靴、制帽、洋服仕立等)、
商業の体験を生かしポーランドの発展に協力した。
18世紀、ポーランドが分割され、ポーランド王国が崩壊し、
ロシアの時代となった。
そして、ユダヤ教は再び迫害を受け始めた。
ロシア政府は領内に「ユダヤ人定住許可区域」を設け、活動の自由を奪った。
大規模なゲットーと云ってもよかった。
18世紀後半、アレクサンダー 2世は様々の改革を行い、
ユダヤ人の待遇もよくなり、医者、薬剤師、作家、
芸術家、法律家、学者等の自由が認められた。
けれども、アレクサンダー2世 の治世は必ずしも
ポーランド人や農奴、工場労働者等の民衆を満足させるものではなかった。
1881年、彼は暗殺された。
替わったアレクサンダー 3世は、一転して反ユダヤ政策を推進した。
そして、ロシア語で「ポグロム」と呼ばれる反ユダヤ暴動を煽動した。
ミュージカル「屋根の上のバイオリン弾き」
(日本でも森繁久弥がロングランして好評)は
この時代のロシアにおけるユダヤ人一家を描いたイデイッシュ文学である。
1881年の「ポグロム」で、エリザベートグラードで
15000人のユダヤ人が犠牲になったのを契機に、
ロシア各地で「ポグロム」が発生、
ロシア政府はこれに追打ちをかけて、
1882年、ユダヤ人が村に住むことを禁止、
町や特定居住所の数を制限、
高等教育機関への入学制限を法制化した。
この「ポグロム」はヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国の
反発から1884年に収まったが、
この時、ロシアから多くのユダヤ人がアメリカへ脱出、移住した。
ポグロムを逃れてロシアを後にしたユダヤ人の行先は
南北アメリカ・オーストラリア等であったが、
中でも多かったのはアメリカ合衆国であった。
1880年−1920年の移住者数は200万人に達した。
真先に移住したスペイン追放組以来、
1825年までに10000(??)万人が既にアメリカに住着いていた。
次いで1820年代後半−1860年にかけて、
中欧(ドイツ、ボヘミア、ハンガリー等)から渡来したのが
ドイツ系ユダヤ人(アシュケナジム)であった。
フランス革命後は西欧では、一応、平等権をえたものの、
新たな「反ユダヤ主義」が起こり、その迫害から逃れたのであった。
一文なしでアメリカに着いたこれらドイツ系ユダヤ人は、
西欧人アメリカ開拓者の後に従って、
装身具や馬車に積んだ家具等を売り歩いた。
開拓地が村、町になり、やがて都市になるにつれて、
彼等は行商人から中小企業経営者、また大企業家になった。
ニューヨーク最初のB・アルトマン百貨店、メーシー百貨店
はじめ大デパートは殆どドイツ系ユダヤ人のものである。
彼等は衣料品産業を起こし、後に東欧系ユダヤ人に引継いだ。
彼等は主要産業銀行の中には入れなかったが、
新たに投資銀行業界、証券業界等に進出し、大成功を収めた。
このようにして資産階級となった彼等は1880年代、
「ポグロム」で追われた東欧系ユダヤ人を味方として受け入れ、
アメリカ国内の「反ユダヤ組織」と闘い、
また、種々の慈善団体を結成し、結束して彼等を助けた。
アメリカ合衆国に到着した東欧系ユダヤ人の 70%近くは
ニューヨークやフィラデルフィア、シカゴ等の都市部に住んだ。
中でも、とりわけニューヨークが多かった。
貧民窟のような建物にひしめくように住み、
言葉も習慣もわからぬまま、ほとんどすべての仕事をした。
少数の者は行商人、しかし利益はたかが知れたもの、
大部分はタバコ、皮革、衣服工場の労働者となり、悪労働条件に苦しんだ。
それでも、故郷の経験を生かして洋服、婦人服裁縫師になった。
また肉体労働者として日夜、汗した者もいた。
仕事は厳しかったが、彼等は東欧にいた時よりも
精神的に自由、肉体的に安全であった。
彼等は出身地別に「同郷人会」をつくり
助け合い、文化面についても活動を行った。
一生懸命働きながら子供達を必ず学校へ通わせ、
自身も夜学へ通った。そして、時が過ぎると、子供達は成人して
医師、弁護士、大学教授等になるものが増えた。
以上のような努力の甲斐あって
東欧系ユダヤ人は新聞、通信、放送、情報、映画産業、芸能の分野、
つまり20世紀に急成長したアメリカの新しい産業分野において、
圧倒的な勢力をうるようになった。
今、アメリカ・ユダヤ人は毎年巨額の資金をイスラエルに寄付している。
そして。アメリカ合衆国の政治を動かす巨大な力をもっている。
21世紀は「経済戦争」と云われるが、
そのアメリカの戦力として、 総勢600万人のユダヤ人グループの存在は大きい。
19世紀から、ユダヤ人が憧れ、夢に待ち望んだ
「シオンの丘」復活の姿は、「超大国の産業都市、ニューヨークの姿」かも知れない 。
より転載
ユダヤ人の西欧居住はローマ時代に遡る。
エルサレムの第二神殿が破壊された紀元70年以来、
ローマ軍団により、彼等は捕虜、商人、医者等として連れ込まれた。
そして、イタリア、スペイン、フランス、ドイツ等
ローマ帝国の全領土に住み着いた。
最初は農夫やまた国際商人、職人として働いた。
ローマ皇帝がキリスト教に改宗して以来、
ユダヤ人はキリスト教との間に厳しい区別を設けられながら、
手工業の職人として働いた。
ユダヤ教徒が中世の西欧社会から排除されていったのは
12世紀末-13世紀、 十字軍運動の宗教的狂乱時代においてであった。
カトリック教会は、ユダヤ教を、キリストを裏切った憎い宗教として
「交際禁止」等の差別政策を発令、
ユダヤ教徒は農耕、都市での手工業、国際貿易等、
一切の生業を捨て、社会から閉め出された。
ただ、一つだけ、キリスト教徒が従事してはいけない
金融業、行商等は許され、それにより辛うじて生計を維持し、
そして納税しなければならなかった。
カトリックの教義では、「利子取得は罪悪、イエス殺しの裏切り者、ユダヤ人は
日々、利子取得の罪を犯し続けるのがふさわし」と云う考え方であった。
しかし社会にとって金融業は必要である。
ユダヤ教を差別するが、「根絶やし」は避け、
彼等に金融業をやらせて社会に役立たせる。」と云う「ずるい考え」であった。
1095年、イスラム圏パレスチナを解放するため、キリスト教徒は十字軍を組織した。
そして、最初の血祭りとして、ユダヤ人が襲われた。
欧州各地のユダヤ教の共同体は次々に襲われ、
略奪、大量虐殺が行われ、無数の難民が発生した。
1215年、キリスト教とユダヤ教の共存がきびしく禁止され、
ユダヤ教徒は異なる衣服、パッチ(布切れ)を付けされた。
これはユダヤ教徒がキリスト教徒の女性と交わることを防止するためであった。
そして、これがゲットーの設置へと繋がった。
13世紀の後半、まずドイツでユダヤ教徒の特定地区への強制隔離が実行された。
ゲットーの始まりであった。
ゲットーの周囲は壁で囲まれ、日暮れと共に門は閉ざされた。
やがて、ゲットーは西欧各地に拡がり、ユダヤ教徒の物理的隔離体制が完成する。
こうして、ユダヤ教徒達は、西欧キリスト教社会の最底辺に位置し
誰からも相手にされない「被差別集団」として形造られていった。
中世、西欧キリスト教徒により
「儀式殺人」「聖餅冒涜」と云う中傷が度々なされた。
「儀式殺人」とは、「ユダヤ人がキリスト教徒を誘拐し、拷問にかけ、
生き血を抜取ってユダヤ教の儀式に使う」と云う、
根も葉もない流言が何処からとなく飛び、人々はそれを信じた。
「聖餅冒涜」は「カトリックのミサに使われる小さいパンを
ユダヤ教徒が盗みピンを刺したり、叩き潰して冒涜する」
と云う馬鹿げたデマである。
いずれの場合も、その都度、ユダヤ人が告発され、
自白を強要され、殺され、財産を没収された。
これらは13世紀、頻繁に行われた。ユダヤ人に対する中傷は、
ペストの流行(14世紀中頃、全ヨーロッパを襲い、
250万人の命を奪った)で頂点に達した。
「ユダヤ人が井戸に毒を投げ入れたためだ」
との噂が飛び、多数のユダヤ人がキリスト教徒に襲われ、殺害された。
以上が西欧、中世におけるユダヤ人迫害である。
すべて、カトリック教会の主導でキリスト教徒が行った宗教的迫害であった。
迫害に耐えかね、多くのユダヤ教徒は東欧等に逃れた。
14-15世紀以降20世紀前半まで、東欧がユダヤ人の中心地となった。
なかでも、ユダヤ人に対して寛容な政策を採るポーランドは
ヨーロッパ中でユダヤ人移住者がを最も多い国となった。
ポーランドは農業国で貴族達の所有する荘園を農奴が耕し、
商業は未だ発展していなかった。
王侯、貴族は国の建設を助けて呉れるユダヤ人達を歓迎した。
ユダヤ人達は大都市にユダヤ人社会を造り手工業(製靴、制帽、洋服仕立等)、
商業の体験を生かしポーランドの発展に協力した。
18世紀、ポーランドが分割され、ポーランド王国が崩壊し、
ロシアの時代となった。
そして、ユダヤ教は再び迫害を受け始めた。
ロシア政府は領内に「ユダヤ人定住許可区域」を設け、活動の自由を奪った。
大規模なゲットーと云ってもよかった。
18世紀後半、アレクサンダー 2世は様々の改革を行い、
ユダヤ人の待遇もよくなり、医者、薬剤師、作家、
芸術家、法律家、学者等の自由が認められた。
けれども、アレクサンダー2世 の治世は必ずしも
ポーランド人や農奴、工場労働者等の民衆を満足させるものではなかった。
1881年、彼は暗殺された。
替わったアレクサンダー 3世は、一転して反ユダヤ政策を推進した。
そして、ロシア語で「ポグロム」と呼ばれる反ユダヤ暴動を煽動した。
ミュージカル「屋根の上のバイオリン弾き」
(日本でも森繁久弥がロングランして好評)は
この時代のロシアにおけるユダヤ人一家を描いたイデイッシュ文学である。
1881年の「ポグロム」で、エリザベートグラードで
15000人のユダヤ人が犠牲になったのを契機に、
ロシア各地で「ポグロム」が発生、
ロシア政府はこれに追打ちをかけて、
1882年、ユダヤ人が村に住むことを禁止、
町や特定居住所の数を制限、
高等教育機関への入学制限を法制化した。
この「ポグロム」はヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国の
反発から1884年に収まったが、
この時、ロシアから多くのユダヤ人がアメリカへ脱出、移住した。
ポグロムを逃れてロシアを後にしたユダヤ人の行先は
南北アメリカ・オーストラリア等であったが、
中でも多かったのはアメリカ合衆国であった。
1880年−1920年の移住者数は200万人に達した。
真先に移住したスペイン追放組以来、
1825年までに10000(??)万人が既にアメリカに住着いていた。
次いで1820年代後半−1860年にかけて、
中欧(ドイツ、ボヘミア、ハンガリー等)から渡来したのが
ドイツ系ユダヤ人(アシュケナジム)であった。
フランス革命後は西欧では、一応、平等権をえたものの、
新たな「反ユダヤ主義」が起こり、その迫害から逃れたのであった。
一文なしでアメリカに着いたこれらドイツ系ユダヤ人は、
西欧人アメリカ開拓者の後に従って、
装身具や馬車に積んだ家具等を売り歩いた。
開拓地が村、町になり、やがて都市になるにつれて、
彼等は行商人から中小企業経営者、また大企業家になった。
ニューヨーク最初のB・アルトマン百貨店、メーシー百貨店
はじめ大デパートは殆どドイツ系ユダヤ人のものである。
彼等は衣料品産業を起こし、後に東欧系ユダヤ人に引継いだ。
彼等は主要産業銀行の中には入れなかったが、
新たに投資銀行業界、証券業界等に進出し、大成功を収めた。
このようにして資産階級となった彼等は1880年代、
「ポグロム」で追われた東欧系ユダヤ人を味方として受け入れ、
アメリカ国内の「反ユダヤ組織」と闘い、
また、種々の慈善団体を結成し、結束して彼等を助けた。
アメリカ合衆国に到着した東欧系ユダヤ人の 70%近くは
ニューヨークやフィラデルフィア、シカゴ等の都市部に住んだ。
中でも、とりわけニューヨークが多かった。
貧民窟のような建物にひしめくように住み、
言葉も習慣もわからぬまま、ほとんどすべての仕事をした。
少数の者は行商人、しかし利益はたかが知れたもの、
大部分はタバコ、皮革、衣服工場の労働者となり、悪労働条件に苦しんだ。
それでも、故郷の経験を生かして洋服、婦人服裁縫師になった。
また肉体労働者として日夜、汗した者もいた。
仕事は厳しかったが、彼等は東欧にいた時よりも
精神的に自由、肉体的に安全であった。
彼等は出身地別に「同郷人会」をつくり
助け合い、文化面についても活動を行った。
一生懸命働きながら子供達を必ず学校へ通わせ、
自身も夜学へ通った。そして、時が過ぎると、子供達は成人して
医師、弁護士、大学教授等になるものが増えた。
以上のような努力の甲斐あって
東欧系ユダヤ人は新聞、通信、放送、情報、映画産業、芸能の分野、
つまり20世紀に急成長したアメリカの新しい産業分野において、
圧倒的な勢力をうるようになった。
今、アメリカ・ユダヤ人は毎年巨額の資金をイスラエルに寄付している。
そして。アメリカ合衆国の政治を動かす巨大な力をもっている。
21世紀は「経済戦争」と云われるが、
そのアメリカの戦力として、 総勢600万人のユダヤ人グループの存在は大きい。
19世紀から、ユダヤ人が憧れ、夢に待ち望んだ
「シオンの丘」復活の姿は、「超大国の産業都市、ニューヨークの姿」かも知れない 。
2008.03.11 (Tue)
何故、ユダヤ人はこれほどに忌み嫌われたのでしょう?
http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060105より転載
歴史をたどると、中世ヨーロッパでは各国から次々とユダヤ人が追放されています。
1290年 イギリス
1306年 フランス
1348年 ザクセン
1360年 ハンガリー
1370年 ベルギー
1380年 スロヴァキア
1420年 オーストリア
1444年 オランダ
1492年 スペイン
これはどうみても異常でしょう。
犯罪者個人が国外に追放されるのならばわかりますが、
すべてのユダヤ人が追放されるということはよほどの理由があるはずです。
何故、ユダヤ人はこれほどに忌み嫌われたのでしょう?
その理由は、タルムードを知ることによって
推し測れるのではないかと思います。
歴史をたどると、中世ヨーロッパでは各国から次々とユダヤ人が追放されています。
1290年 イギリス
1306年 フランス
1348年 ザクセン
1360年 ハンガリー
1370年 ベルギー
1380年 スロヴァキア
1420年 オーストリア
1444年 オランダ
1492年 スペイン
これはどうみても異常でしょう。
犯罪者個人が国外に追放されるのならばわかりますが、
すべてのユダヤ人が追放されるということはよほどの理由があるはずです。
何故、ユダヤ人はこれほどに忌み嫌われたのでしょう?
その理由は、タルムードを知ることによって
推し測れるのではないかと思います。
2008.03.11 (Tue)
中世のユダヤ人追放

Fig. 9 は中世におけるユダヤ人の居住地帯と移住ルートを示すものである。
キリスト教社会が、ユダヤ人を閉め出した有様が一目でわかる。
スペインからの脱出は 1492年、
ポルトガルからは 1497年、
英国からは 1290年
フランスからは 1306年、
ドイツからは 1096-1792年、
リトアニアからは 1495年、
クリミアからは 1016年、
オーストリア、 ハンガリーからは 1349-1421年であった。
http://kansai.jasnaoe.or.jp/ksnaj/k-senior/old/DOC/judea/risan.html#51
より転載
11世紀から、キリスト教再興運動が起こり、
13世紀の初めに、スペインはキリスト教国になった。
ユダヤ人達は当初、それまでと継続的に社会的役割を果たしたが、
やがてキリスト教徒の反発を招き、国内に反ユダヤ感情が拡がった。
ユダヤ人に対する略奪、虐殺が各地で起こるようになった。
15世紀、異端審問制度が始まった。
これにより、隠れていたユダヤ人は次々に財産没収、投獄、
公開で「火あぶりの刑」に処せられた。
1492年、唯一残っていたイスラム教の小国、グラナダがキリスト軍に陥落、
これを機にスペイン、イサベラ女王は、すべてユダヤ人に対し国外退去を通告した。
こうして、国の経済を担うユダヤ人側近を失ったスペイン王朝は急速に国力が衰え、
無敵スペイン艦隊の敗戦を機に、列強との競争から脱落していくのであった。
ユダヤ人のスペイン追放の年は、
奇しくもコロンブスの探検航海出発の年であった。
中世のユダヤ人迫害は、「キリストを裏切ったことに対する憎しみ」、
つまり、宗教的なものであったが、
15世紀を迎える頃から、ユダヤ人の能力に対する
「妬み、反感、」つまり「人種差別の念」が混在するようになってきた。
この時、スペインから追放されたユダヤ人の数は10万人から20万人、
行先は地中海沿岸のイスラム圏か、
または習慣も大して違わないポルトガルであった。
イスラム圏ではユダヤ教に寛大で、宗教の自由も認めめられたので、
比較的に落着いた生活を送ることができた。
しかし、ポルトガルでは移住後 5年で
スペインと同様な追放が行われ、今度はオランダへ移住する。
オランダはこれらのユダヤ人を歓迎、彼等から経済を教わり、
強国へとのし上がるのであった。
2008.03.11 (Tue)
ディアスポラ(ユダヤ人の離散)

http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_he/a6fhe200.htmlより転載
紀元73年、967名のユダヤ人が
7ヶ月も籠城し続けていた難攻不落の要塞「マサダ」を、
8000ものローマ帝国軍が総攻撃。
追いつめられたユダヤ人は、2人の老婆と5人の子供を残し、全員自害して果てた。
そして紀元132年に、ユダヤ人による最後の反乱
(バル・コフバの反乱)が鎮圧されると、
それをもってユダヤの対ローマ戦争は事実上終結し、
ローマ帝国は「ユダヤ州」を「シリア・パレスチナ州」に変名。
ユダヤ人はローマ帝国から徹底的に追放されてしまったのである。
これは「ディアスポラ(ユダヤ人の離散)」と呼ばれている。
しかし、その全てがスファラディ系ユダヤ人たちとなるわけではない。
スファラディ系ユダヤ人とは、スペインに移り、
のちにそこから追放されてアラブ諸国に住んだ人々のことである。
ディアスポラの後、ユダヤ人の中には、スペイン以外の地に定着した人々もいる。
特にそのユダヤ国家の崩壊のなか、
自分たちがユダヤの根幹を守らなければならないと考えた者たちがいた。
それが当時のユダヤ教保守派(パリサイ派)や
律法学者、すなわちユダヤの指導者たちであった。
彼らの中枢は、エルサレムを後にして、まずエジプトのアレキサンドリアに移り、
そしてアレキサンドリアから小アジア、
さらにイラクのバグダッド(バビロニア)へと移動していった。
『タルムード』が編纂されたのはこの頃である。
『旧約聖書』を補完するものとしての『タルムード』の発生史は、
すなわちユダヤ教の発展史である。
離散時代のユダヤ社会はかつての神殿祭祀ではなく、
「シナゴーグ(ユダヤ教会堂)」の
ラビ(ユダヤ教指導者)による『旧約聖書』や
『タルムード』の研究解釈に切り替わった。
このシステムは、現在のユダヤ教にそっくりそのまま受け継がれている。
11世紀に「イスラム東方世界」が分裂すると、
それまでユダヤ人に対して穏健であったイスラム政権は、ユダヤ首長を追放。
これによりバビロニアの
「サンヘドリン(ユダヤ長老議会)」本部は陥落してしまった。
そのため、彼らの中枢はヴェニスに移動した。
ヴェニスではあたかも治外法権であるかのように、
これらオリジナルなオリエンタル・ユダヤ人たちは
自由に貿易に携わることができた。
ヴェニスはユダヤ商人の活躍により、
地中海貿易最大の港町へと発展していったのである。
そして、オランダがいわゆる無敵艦隊などを持つようになり、
大航海時代が到来すると、
オリジナルなユダヤ人たちのコミュニティの中心は
オランダ(アムステルダム)に移った。
そして、オランダがイギリスに敗れることによって、
ユダヤ人たちのコミュニティの中心はイギリスへと移っていったのである。
※ アムステルダムのユダヤ人は、
当時のアムステルダム全人口15万人のうち、わずか1%強に過ぎなかったが、
アムステルダム・ユダヤ人共同体は経済的・文化的な繁栄を築いていた。
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